四章 さまよう夜
第19話 裏庭で
明るくなれば、住人のほとんどが仕事へ出かけるとはいえ、やはり人目につきやすい。暗いうちに、どれだけ杏樹に近よれるかが勝負だ。位置からいうと、集落の端から端。対角線上にななめに居住区をよこぎっていく感じ。
考えていてもしょうがないので、とにかく立ちあがり、路地へ歩きだす。その直後だ。夜空を切り裂くように笛の音が鳴りわたる。ホイッスルだった。すると、それに反応して、次々と家々が点灯する。近くの家屋から有線放送が聞こえた。内容までは聞きとれないものの、住人があわてて起きてくる気配がする。聖王をあぶりだすためだ。自分たちだけでは探しだせないと判断した高木親子が、最終手段に出たのだろう。
思ったとおりだ。ざわめいていた家屋から、男たちがとびだしてくる。懐中電灯はわかる。しかし、金属バットやトンカチ、包丁、なんなら猟銃を手にしている者までいる。
「若い男が逃げたと」
「捕まえたやつのもんだ」
「高木の家からだけん、もっと、なかのほうだろう」
「早いもん勝ちだけんな」
そんな声が聞こえる。
(早い者勝ち? 冗談じゃない)
こうなると、集落じゅうが敵だ。男たちの感じでは生きたままでなくてもいい。死体にしてでも欲しい。そんなようすが見てとれる。猟銃で撃たれたら、冗談でなく死んでしまう。男たちの集団が走っていくのを物陰から見送った。ありがたいことに家と家が密接しているこの集落の造りは、身をひそめる者にとっては最高だ。それに、捜索隊の連中は懐中電灯を持っている。遠目でもどこにいるかよくわかった。それらをさけながら、路地から路地へ渡っていく。まず、海へ行く。それから東へむかえば、迷うことなく目的地へたどりつくだろう。街灯が少ないのが逆に幸運だった。家と家のあいだや裏庭を通りながら移動していく。わずか十五センチほどのすきまでも、よこむきになれば、なんとか進んでいける。
それにしても、やけに魚くさい町だ。どこへ行っても干からびた魚の匂いがする。細い溝のそばを通ると吐き気がした。しかし、通りのほうからは人の声がする。裏をまわっていくしかないと、ゴミゴミした庭だか物置だかわからない汚い場所を歩く。重なったビールケースや木箱、空き缶や壊れたオモチャなどを一つずつよける。すると、とつぜん、ちょっとひらけた場所に出た。いつのまにか、かなり海が近くなっていたらしい。小さな畑がある。こんな潮風のあたる場所で何が育つのだろう。その畑のまんなかに人影があった。一瞬、ギクリとしたものの、両手をよこに伸ばした体勢はカカシのようだ。なんだ、カカシかと思ったとたん、人影がしゃがみこむ。人間だ。
(うわ。こんなとこになんで)
懐中電灯も持ってないし、聖王を捕まえるために探してるようではなかった。こっちもしゃがんで姿勢を低くする。いったい何をしているのだろう? そこにいられると、こっちが逃げられない。しかたなく見ていると、とつぜん、男は地面に土下座した。しばらくして顔をあげ、また頭をつける。それを何度もくりかえしている。もしかして認知症の老人だろうか? 困ったことになった。ここまで来て、あともどりはしたくない。認知症の老人なら、かたわらを人が通っても気づかないかもしれない。そう考え、そろそろと近づく。畑のよこを通りぬければ、家を一軒まわりこめる。そのへんの家のすきまを通れば東側へ行けるはずだ。
家の壁に張りついて、どうにか畑のよこを通りすぎよう——
近づいていくと、老人が何をしているのか見えた。背中からなので見えない部分は想像になるが、畑の野菜に手を使わずにかじりついているようだ。
(こうなると、家族もたいへんだな)
なんて考えていたものの、すぐわきを通りぬけようとして、聖王はさらにゾッとした。違う。食べているのは野菜ではない。野菜にむらがる虫だ。バッタを追いかけて、カエルみたいにピョンと男がとんだので、やっとわかった。
(うわ。コイツ、虫食ってんのか?)
真夜中、暗闇のなかで犬みたいによつんばいになって虫を食う。怖くなって、聖王は立ちすくんだ。そのときだ。ガラリとそばのガラス戸があいて、家内から人の声がした。あわてて縁の下にしゃがみこむ。
「お父さん。あんた、また畑におうかね? 人に見つかるとウルサイけん。戻ってくうだわ」
老婆の声だ。しわがれて、かすれている。姿は見えないが少なくとも七十代なかば。だが、月光がほんのり照らす畑のなかで奇行をくりかえしている男は、まだ髪が黒く、五十代より上には見えない。背の高い、がっしりした体つきといい、たぶん四十前後。
(ああ、そうか。孫がいて、その子の父親だから、家族は『お父さん』って呼んでるのか。ほんとはおばあさんの息子だ)
それにしても、子どものいないところでも息子を『お父さん』はちょっと変な気がする。
(どうでもいいから、早く家のなかに入ってくれ。そしたら、おれは安心して通れるんだから)
息を殺して見守る。老婆がさらに何度か呼びかけた。すると、ようやく男は立ちあがり、自分を呼ぶ者を見る。そのとき、やっと聖王は気づいた。暗闇のなかで、やけに男の姿だけハッキリ見えるわけが。妙に白いのだ。ぼんやりとだが、男の体が青白く発光している。そして、そのまま、溶けるようにスッと消えた。老婆はそうなることがわかりきっていたようにガタガタと戸を閉める。
(え? ちょっと……?)
自分の見てしまったものを理解できず、聖王の思考はしばし停止した。
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