第49話 人魚の反乱
「さあ、飲め」
梶原は片手で銃を持ち、もう片方の手で粘菌入り紙コップを聖王の唇に押しあてる。青白く発光する粘着質の液体が、すぐ目の下でタプタプとゆれた。紙コップがかたむけられ、しだいに迫ってくる。唇にヒヤリとカエルのような感触があたる。それは蛍の唇のやわらかさにも似て、一瞬、甘い陶酔が走った。
が——
「室長、梶原室長! たいへんです!」
ドアがひらき、廊下から人がかけこんでくる。白衣を着た研究者だが、梶原よりだいぶ若い。インターンだろうか。
「なんだ。小村? さわがしいな。今、大事なところなんだぞ?」
小村はチラリと聖王たちのようすを見た。もちろん、研究者なら、これがどんな状況かひとめで理解しただろう。が、彼の顔色は変わらない。
「野良人魚が研究所に押しよせてきて、あばれています。警備員が何人か、かみつかれました」
「なんだって?」
野良人魚とはなんのことだろう? 類推するに、世話する人がいなくなって山に放たれた人魚だろうか? 食料がつねに不足して飢餓状態のはずだ。それで食べものを求めてきたらしい。
「野良くらい、なんとかできるだろう? いつも、おとなしい連中じゃないか。生肉はないのか? それをエサにして前庭に集めるんだ。なんなら、かまれた警備員をエサにしていい」
非情な命令がすんなりと出てくる。梶原という男のそれが本質なのだ。だが、わずかにすきができたその瞬間だった。周囲のガラス壁がいっせいに割れた。展示室の魚よろしくならべられた被験者たちがケースからとびだしてくる。
「うわぁーッ!」
「なんだ? おまえたち?」
うろたえる梶原と小村に被験者たちは襲いかかり、両手足にまといつく。これはチャンスだ。蛍の手をとり、聖王は走りだした。
「君一人くらい、おれが養うよ。親父も死んだから、家に帰っても殺されないし、内定の会社で働けば——君の戸籍がどうなってるか。正式な結婚はできないかもしれないけど」
訴えながら廊下へ出る。さっきまで無人みたいだった研究所のなかが、にわかにあわただしくなっていた。制服を着た警備員が何人も走りまわっていた。インカムをつけて何やらしきりにわめいている。
「玄関前占拠されました」
「屋上付近、ふさがれています」
「発火! ヤツらの一部が発火しています! うわー!」
見れば、たしかに吹きぬけになったエントランスホールから炎があがっている。それも、人魚じたいが燃えているようだ。高温の青い火柱があがる。
「……人魚って発火するのか?」
「ふつうはしない。けど、攻撃されたとき、コアを守るために末端を燃焼させて敵を追いはらう。最終的自衛手段」
洞窟のなかのあの結晶のような粘菌の集まり。あれがすべての粘菌をあやつっている。実験をくりかえされること、そして、そのための改良は、粘菌にとって攻撃にほかならないのだ。だから、人間に取り憑いたすべての末端に蜂起させ、もっとも重要な部分を守ろうとしている。しかも、人魚のなかには知性を残している者があった。どこからか灯油かガソリンの入ったポリバケツを持ってきて、仲間が燃える火柱にそそいでいる。またたくまに火がひろがる。
「早く、おれたちも逃げないと、ここはヤバイ。焼けおちるぞ」
エントランスはもう通れそうにない。右往左往する職員をかきわけて走った。
「こっち。裏口から出れば、まだまにあう」
「案内してくれ」
蛍の導きで階段をかけおり、裏口をめざす。そのあいだ、あたりは地獄絵図だ。実験に使われていた被験者がみんな、ケースをやぶって人間を襲っている。人魚に食べつくされる者。粘菌をうつされ、自身も人魚になっていく者。それらを容赦なく炎がなめる。
「もうダメだ。こっちも火がまわってきた」
「大丈夫。ここは防火シャッターがおりるから。急いで」
燃える研究所を逃げまどう。それでも、蛍とならよかった。もしここで二人で死ぬのだとしても。いや、体が焼かれても蛍は死なないのだろうか? 聖王だけが死んでしまうのか? それが心配だ。
「蛍。君は炎に焼かれたら死ぬの?」
「わからないけど、たぶん、死なない。表皮の損傷は粘菌の修復力で治るだろうし、内臓は粘菌が作る膜でコーティングされてるから、かんたんには焼けない。それに……」
「それに?」
「コアにすべての粘菌の記憶が刻まれてる。わたしの記憶も。もしも、この体が滅びても、コアがあるかぎり、わたしの存在は消えない」
不老不死。その悲しさがひしひしと伝わってくる。聖王にはどうにもできない。ただぶじに二人でここを出ていけることを願うしかなかった。
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