二章 魚女の伝承

第7話 図書館に残されたヒント



 浴衣を着た少女が暗闇を歩いている。周囲は森だ。樹木のざわめく音が生き物の荒げた呼吸のようだ。山のなかの獣道……いや、あの神社だろうか? かすかに石段が見える。

 金魚の柄の浴衣には見おぼえがあった。写真で見た杏樹が着ていたものだ。白地に赤い金魚。流水模様が描かれている。でもその浴衣は泥でよごれている。ころんで地面につっぷしたのか。それに少女は真っ暗ななか、誰かから逃げているようだ。ハアハアと息を切らし、必死にやぶをかきわけていく。

 背後から何者かの足音が追ってきた。靴をはいてないのか、ペタペタと肌がちょくせつ土を打つ。少女はこの男から逃げているのだ。


(杏樹? そっちじゃない。そっちは崖だ。戻ってこい)


 なぜか、そのさきに崖があるとわかった。杏樹はもうすぐそこへ追いつめられてしまう。その前に体力が限界だろうか。走るというよりはよろめいている。下駄はとっくになげだして、杏樹もまた裸足だ。草や小石で切ったのか、うっすらと血がにじんでいた。


(杏樹! おれが助けてやるから。こっちへ来い。崖へ行っちゃダメだ!)


 だが、聖王の声は聞こえていないのか、杏樹は立ちどまらない。ふらふらになりながら、前へ進んでいく。すぐうしろに何者かの腕が見えた。黒い影になっているが、異様にふしくれだっている。それに指の形がおかしい。指と指のあいだに水かきがある。長いかぎ爪は鬼のようだ。

 もうすぐ杏樹の肩にその手がかかる。かぎ爪が空を切る。


(杏樹! 杏樹!)


 大声で呼びかけているつもりなのに声が出ない。体も動かない。そもそも、自分の体がどこにもない。

 そのあいだにも、鬼の手が杏樹の髪をつかんだ。結った髪がほどけ、悲鳴が響きわたる。


(杏樹ー!)


 そこで目がさめた。聖王は叔父の家の客間に布団を敷いて寝ている。夢でとびおきたのは初めてだ。杏樹を心配する気持ちが強かったせいだろう。それと、昨夜見たあの奇怪な足跡が強烈な印象になっていたからだ。


 これは夢だ。ただの夢……。


 悪夢をふりはらうようにして朝の支度をした。叔父の出勤にあわせて、ふもとの町にある図書館の前まで送ってもらう。

「帰りは昼のバスに乗りますので」

「乗りおくれたら電話するだよ」

「はい」

 叔父の車を見送って、図書館の敷地へ入る。田舎だから、さぞやした古い建物だろうと、どこかバカにしていた。が、じっさい目の前で見ると、なかなか大きい。それにガラス壁を多く使った建物は図書館というより美術館みたいで意外にシャレている。長い渡り廊下が首長竜のよう。キョロキョロしながら建物に入ると、受付があった。ショートカットでメガネをかけた女性職員がいる。

「すみません。先日ここに妹が来ているはずなんです」と言いつつ、聖王は去年の夏休みにとった免許証をとりだす。

「こっちではローカルニュースになったって聞いたのでご存じだろうと思いますが、一週間前に行方不明になった正木杏樹の兄です。妹がここで読んだ本を知りたいんです。教えていただけませんか?」

 警戒されたらどうしようかと思ったが、行方不明の女子高生の兄ということで同情をあびたらしい。覚悟していたよりずっと優しく応対してくれた。当日、杏樹は貸出しカードを作っていた。一冊、本を借りている。


(あれ? でも、杏樹のキャリーケースのなかに本はなかったけどな)


 タイトルは『山陰地方の妖怪と伝承』だ。そこは予想どおりだが、だとしたら、その本はどこへ行ったのか?


 受付の司書は申しわけなさそうに言いだす。

「この本、できれば返していただきたいんですが……」

「すいません。探しておきます」

 とはいったものの、キャリーケースでなければ、どこにあるのか? 梨花なら知っているだろうか? まさか誰かが隠したとも思えないし、もしかしたら、さわるのを遠慮した下着の底にでも入っていたかもしれない。叔父の家に帰ったら、もう一度調べてみよう。

「同じ本、ここにありますか?」

「ありません……が、似たような郷土史ならあると思いますよ」

「たとえば、どんな?」

「妹さんのことはおぼえてるんですが、魚女うおめについて知りたいとおっしゃってました。それで、その本を勧めたのはわたしです」

「うおめ?」

「魚の女と書いて、うおめです。海辺のごくかぎられた地区での伝承ですよ。同じ県内の人にもほとんど知られてません」

 妙に胸がざわついた。魚女——うめさん。芦原も魚になんとかと書くといいかけていた。あの神社が祀っているのは、その妖怪ではないのか?


「その伝承について書かれた本はありますか?」

「一番くわしいのは、妹さんにお貸しした本ですが、ちょっとだけならほかにも載ってるのがありますよ」

「それ、見せてください」

「持ってきますね」

 しばらく待っていると、司書が一冊の薄い本を持ってきた。いかにも自家製本だ。かなり古く紙が黄ばんでいる。字もかすれて読みにくい。今は使わない常用外漢字が目立った。

「このページです。なんなら、コピー機があちらにあります」

「ありがとうございます。コピーしてきます」

 また貸出して戻ってこないと困るとでも思われたのか。まあ、本じたいは必要ないだろう。問題のページをコピーしたあと、念のため奥付も複写しておく。著者は当然、聞いたこともない名前だ。このへんのアマチュア郷土史研究家に違いない。

 ひととおり本で読もうとしたが、素人の文章なので読みにくい。教科書に載っている文豪の小説は、やはりそれだけの価値があったのだなと、変なところで納得する。まあ、コピーはとったのだし、ここでの用はもうすんだ。

「ありがとうございました。本、探しておきます」

「何かあれば、また来てくださいね」

「ところで、妹はほかに話してませんでしたか? どこそこへ行くとか、誰かに会うとか」

 司書は考えたあと、図書館の案内書をさしだした。

「そういえば、何年かぶりに友達に会ったとかいわれてた気がしますけどねぇ。よくおぼえてなくて。たしか、戸の内の友達だとか。ほかの司書にも聞いておきます。これ、図書館の連絡さきが書かれてますから」

「ありがとう」

 パンフレットを受けとり、コピー用紙とともにデイパックにつっこむ。帰ったら本探しだ。それに、魚女についても調べてみよう。二津野町の伝承なら、当然、地元の人たちが知っているはずだ。

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