第35話 マフラー

 またしても一週間が過ぎて行った。心の状態は目に見えて良くなっていたようで、授業における教師の言葉が前よりも耳に残るようになっていた。記憶に少しでも強く刻み付けよう、焼き付けて決して消えない知識へと変えてしまおう。那雪の単純な考えではそれが手一杯。数学が苦手な理由や体育の個人競技しかこなすことの出来ない理由が見えてきたような気がしていた。

 これから先、もっと成績を伸ばすことが出来るだろうか。それとも思考が理論の壁を乗り越えることが出来ないものだろうか。

 きっとこれからも変わることが出来ない。限界地点は高校という場所ではっきりと分かるはずだが、那雪は中学生の時点で苦手が薄っすらと見えていた。中学二年生の単元でもっとくっきりと得手不得手が色濃く映って来るものだろう。

 そうして諦めを描き始めているのは時間が許してくれないものだろうか。早すぎただろうか。

 劣等感に身を煮やして嫌な味付けを施している那雪の傍へと駆け寄る姿がしっかりと目に入った。

「おまたせ」

 きっと彼女は今日も那雪と共に幸せを奏で続けるのだろう。那雪は思考の一拍を置いて声の違和感に心を引っ掛ける。

「なゆきち」

 奈々美の声はいつものような落ち着いたものでもなく、声質も高低も不明瞭な枯れたものとなっていた。

 鼻を啜る音が聞こえてきて那雪は完全に理解した。

「魔女も風邪引くんだ」

「引いちゃったわ」

 奈々美は苦しそうな声をかすれた寒風に混ぜる。日頃の声の艶や心を沸き立たせる美しさとの違いも相まって、聞いているだけで心苦しく感じてしまう。

「声がなゆきちみたいになっちゃったわ」

「私そんなに枯れてるの」

 そんなはずはなかった。冗談ではあったものの、気を許している人のちょっとした遊びだったものの、失礼な人だとちょっとした苛立ちを抱いてしまう。

「ごめんなさい、言い過ぎたわ」

 奈々美の豊満な身体は痩せたようには見えないものの、今は毎日の運動で減らしている最中。三か月から四か月もすれば効果が期待できる、そう告げていた。

「なゆきちのマフラーに入って良いかしら」

 言葉と共に指を向けたのは那雪の首に巻かれたカシミヤのマフラー。奈々美が誕生日プレゼントとして贈ってくれた至高の一品だった。

「寒いよね、風邪も引いてるし」

 そう言ってマフラーをほどこうと一周二周、ここで奈々美の手が添えられて動きが止まった。

「なゆきちは巻いたまま」

 二周程度の長さで上手く巻き切ることは出来るものだろうか。奈々美の言いたいことを理解しつつ全てほどいて奈々美と肩を寄せ合ってマフラーを巻き始める。

「こういう事だよね」

 那雪と比べて少し背が高いだろうか。マフラーを巻きながらいつもより近い奈々美の顔を見つめながら背丈や身体に漂う雰囲気を手に取りメガネに阻まれた瞳を緩めてみせた。

 きっとそんな表情の隅々まで奈々美は味わい尽くしている事だろう。中学に上がった時と比べていやらしい事を思ってしまうのは奈々美に似たからなのかそれとも純粋に那雪が成長したが為に根付いてしまったものか。

 そんな自分に軽い嫌悪を覚えつつも奈々美の身体についつい腕を回してしまう。そんな様子を見て取って奈々美は明るい笑顔を花火のような激しさを纏わせて咲かせる。

「なゆきちも私みたいになって来たわね」

 奈々美は嬉しそうに那雪の肩に腕を回してベンチに腰掛ける。雪が積もっていたのはいつの話だろう。あの白い景色は跡形もなく消えて待っていたものは季節の移り変わりというドラマチックな光景などではなくいつも通りの景色。

 あの雪景色は決して遠い昔の事ではなかったはずなのにどうしても最近の事だとは思えない。

「そうね、なゆきちにはもう少し踏み込んで欲しいわね」

 互いに異なることを考えているようだった。その考えの差が開いた崖の底から二人の関係を阻む世間という名の見えざる手が伸びてきてしまいそう。

 得体の知れない不安は奈々美と身近で親身になっただけ濃くなっていく。如何にして子の心情から脱却してしまおうか。いっその事二人のどちらかの両親がいない間に泊まり込んで味わったことの無い世界にまで踏み込んでしまおうか。

 那雪は首を左右に振る。

「どうしたの」

「奈々美との関係であんまりいやらしい事考えたくないなって」

 奈々美の疑問はいとも容易く那雪の本音を引っ張り出してしまうものだから不思議で仕方がない。

 奈々美は枯れた声で緩い笑いを鳴らしながら那雪の肩に顔を乗せた。

「私たちの関係、そんなに綺麗なものじゃないわ」

 衝撃は脳天を貫いた。那雪の印象とは正反対の事を言ってのける彼女の事が分からなくなってしまう。今こそ考えの差の崖はより大きく、世間の偏見は手の姿を取って力強く伸び始める。

「どんなに品が無いって思われてもいいじゃない、したい事をしちゃえば」

 純白の花だと思っていたそれは黄色の線が入っていて赤のまだら模様が入っていた。物語のような美しい百合ではなくてその場にある綺麗な百合で。

 そんな差を想う那雪の気持ちに波を立てるように奈々美は軽く咳き込んだ。

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