第13話 パフェ

 それは優しい幻想なのかいつもの甘い現実なのか、今の那雪には一切実感が湧いてくれない。

 テーブルの上に堂々とした出で立ちで踏み入って来たパフェを眺めて那雪の中に湧いて来る感情とともにアイスクリームの帽子を被った水色のパフェを口へと運び込む。海の味はこの上なく甘くて爽やか。

 このような想いを味わうことを許されたきっかけは奈々美一人で下した判断だった。向かい合って座る彼女は微笑みながら紅茶をひと口啜り、続いてピンク色のパフェをいただく。イチゴの味わいは如何なものか、那雪には想像も付かない。

「美味しいね、私の奢りだから気にせず楽しみなさい」

 そう言われてしまえば逆に欲が冷め切ってしまいそうだった。

「ホントにいいの」

 放り込まれた疑問は奈々美の首を縦に振らせることにしか役立ってくれない。

 ここに至るまでに様々な灼熱を味わって来た。夏の空気は本番の味をしているようだった。外でいっぱい熱を溜め込んでいた。身体をなぞるように流れる汗はあまりにも心地が悪い。身体を濡らすだけでそこまで思われてしまうのはもはや必然でしかなかった。

 それから店へと入り込んで過剰な寒さが身に沁みる空間の中で奈々美から突然放り込まれた提案だったのだ。

 初めからそうしたかったと語る。出会った時点では伏せていた理由など初めから分かり切っていた。恐らく事前に教えていれば那雪が罪悪感を振り回しながら断ると分かり切っていたからだろう。

 つまるところ、無理矢理にでも一緒に行きたいという願望の現れだった。目の前にそびえる二つの甘い塔は奈々美の願いの景色なのかも知れない。

 外の熱気は強かったものの、蝉が鳴く季節は来ていないという事実。

 これからもっと熱くなるのだろうか。考えるだけでも血の気が引いてしまいそう。血が沸くほどの情を湧き上がらせることなど出来そうにもなかった。

 やがて奈々美はピンク色の塔を差し出して言う。

「ひと口もらっていいわ」

 奈々美が口にした味わい、体験の共有はこうして現れた。きっとこれも奈々美の思い通りなのだろう。那雪は言葉に甘えてひと口だけ掬って恐る恐る舌の経験へと手を伸ばす。

 口に含んだ途端に強く主張する甘みに身を震わせ目を輝かせて感じたものを差し出した。

「甘い」

「でしょでしょ、良いわ」

 奈々美はいつも以上に跳ねた気分を声に乗せている。落ち着きを持った声質に抑えられた弾みはあまりはっきりとはしていなかったものの、それでもあまりにも分かりやすい。

 那雪の方からも水色の塔、クリームソーダパフェを味わうようにと要望を声にした。

 奈々美はしばらく爽やかな水色の身体に惚れていたものの、やがてスプーンで掬い上げて素早く口へと入れ込んで行く。

「美味しい」

 語彙力は夏の熱気にて蒸発してしまったのだろうか、出て来る言葉はあまり知性を感じさせなかった。

 そんな中で那雪はパフェを見つめて印象を語る。

「この大人しく礼儀正しいドレスみたいな感じ」

 奈々美は頷くことしかなかった。至高の甘さの前に思考は吹き飛んでしまったようでいつもの艶っぽい表情を見ることは叶わない。

「空みたいでもあるわね」

 奈々美の言葉はまさにその通り、空色の身体の所々に白い雲のようなクリームが刻まれていて今日の空と見比べてみたくなる様をしていた。

 一方でイチゴのパフェは鮮やかなピンクに彩られている。

「花園みたい」

「こっちも空でしょ」

 これまで見てきた幻想の違いなのだろうか。奈々美にとってはどのように映っているのだろう。同じ空とは思えない色使いは甘い雨が降って来そうな姿をしている。空を見おろすイチゴの姿、クリームソーダの時には単純な雲を表すクリームもイチゴパフェに相応しい衣装を纏っていた。挟み込まれる雲はショートケーキの断面だった。

 那雪はしばらくの間幻想に見惚れて、しかしそれだけでは満足できずに食べては口いっぱいに味わいや香りを広げて行った。

 そうした味わいの中で次第にパフェの青空が別のものに見えてきた。那雪がいつの日か奈々美と共に歩み出したいと考えているあの場所を思い描いてしまう。舌を冷やすパフェの身体もまた、そうした感想を描いていた。

「そうだ、奈々美」

 呼ばれると共に奈々美は顔を上げた。

「どうしたの」

 訊ねられても用意した言葉が揺らぐことはない。奈々美と出会った頃であれば相手を問わずに言葉を見失ってしまったことだろう。順調に回復していることを実感しながら、嬉しさを噛み締めながら要望を運び込む。

「そろそろ夏だし、一緒に海行きたい」

 言葉を受けて奈々美は顔を下げ、目を伏して、陰に心を閉ざしてしまおうとしていた。

「嫌だったらゴメン」

 奈々美は顔を上げてみせる。那雪に見せた表情は近頃では最も明るいものだった。不自然過ぎる程の輝きに那雪は違和感を抱きつつも言葉にならないその疑問は探ることも出来ない。

「そうね、次の休み辺りでいいかしら」

 眼差しはいつもの優しさを取り戻していた。先ほどの闇は見間違いだったのだろうか。気のせいであって下さい、そう願わずにはいられなかった。

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