第12話 竹林
誰もが寝静まる夜、そんな言葉をどこで耳にしたものだろうか。何故だか那雪の記憶の中に住み込んでいた。これから迎える時間、それは実際には誰もが寝静まるという印象からは遠くかけ離れたものだった。昼は静かだったはず、しかしながら耳を叩くような勢いで爆音が流れ込んで来た。
「眠れない」
カエルの鳴き声は収まることを知らず、睡眠の妨げとなってしまう。確かに緑色のあの姿はどこか可愛らしいものだったが、あの身体からは想像も付かない轟音で鳴く事、誰も彼もが諦めを示す他なかった。
そうして過ごすこととなってしまったこの深い夜。那雪の睡眠時間を人知れず削るカエルたち。彼らには何一つ悪意はなかった。
――でもうるさいんだよね
ただそれだけ、価値観の違いは決して理解にたどり着くことはない。夜の闇を神具の一部として巻き込み抱いて無理矢理目を閉じて心を落ち着ける。
何も起こらないまま過ぎた時間、眠気に引き込まれないまま溶けた時間は幾つの数字を刻んだことだろう。突然冷静な気持ちは打ち砕かれた。
窓を叩く音が聞こえる。緩やかながらも確かな意志を伝えるもの。カエルの声に紛れて嘘だと思って眠り続けようとするものの、何度か窓を通して音が聞こえることを確認して気のせいでは済まされない事に気が付きカーテンを開く。
切り開かれた視界を出迎えた姿はあまりにも見覚えがあって思わず声に出してしまう。
「奈々美」
那雪の声など届かない事は分かり切っていた。それでも思わず声に出てしまうのだから不思議なもの。
窓を開けて奈々美の姿を直に目に入れる。招き入れた声は夜の重みに馴染んでいつも以上の色気を奏でていた。
「おいで、一緒に飛ぼう」
魔女は箒に乗ってここまで来たようだ。このような外出は初めてで那雪の中に驚きが立派に咲いた。
「今すぐ」
「私裸足だけど」
奈々美は優しい笑みを浮かべて箒の尻を叩いて乗るよう促す。
「裸とかじゃないならいいじゃない」
そうしてしっかりと言葉に乗せられて箒に乗り込み窓を閉める。那雪にとって寝る時間の外出は初めてだった。曰く、次の日は休み。学校に通う者ならある程度共通だから誘いに行くことが出来たのだと語る。実際那雪は部活に所属していなかったため明日は暇しか予定に書くことが出来ない状態だった。
この誘惑に逆らうことなど出来るはずもなかった。
そうして突然幕を開けた飛行。那雪の身体を包むパジャマは薄くて箒が進む時に絶え間なく吹いて来る風が少し寒い。鳥肌が立つほどではなくとも体温を下げてしまいそうな寒気が確かにそこにあった。
月が浮かんでいる。星々が黒の生地を想わせる空の彩りになっている。大きなドレスは誰の持ち物なのだろう。
「今日は何処に行くの」
那雪の問いは奈々美にとっては嬉しいものだった。
「良いもの見に行くの」
恐らくは綺麗な景色だろう。夜闇の中でもここならば襲って来る人物はいない。那雪と奈々美の二人だけの世界と化していた。
「そろそろ見えて来るかしら」
そう告げて箒の進みを緩やかに、動きを抑えて辺りを見回す。コンクリートや加工した木で組まれた様々な建物や道路はその姿を確実に減らして行った。
ここは何処なのだろう。那雪には既に知らない場所としか言いようのないそこには大いなる自然が広がっていた。
「この辺ね」
言葉が目的地に確実に近付いている事を示している。
箒の先に掛けられた灯りは頼りなかったものの、ひとつの星になるには充分、世界観に上手くなじんでいる逸品と言えた。
「こんな小さな明かりじゃ分かりにくいわ」
そう言って電灯を取り出す。
「ごめんなさいね、炎の魔法が使えたらもっと幻想的だったものの」
魔女や魔法、そんな常識の外側の世界にも才能はあるのだろう。奈々美が踏み込んでいる夢のような世界にも苦手な事は存在するのだと思い知らされた。
「いいの、奈々美の見てた世界、見せて」
それから数秒も刻むことなく見下ろしたそこに目的のものはあるのだと思い知らされた。
辺り一面に広がる山の中、闇を帯びて黒々として不安を掻き立てるそこに竹の森林が広がっていた。
「凄い」
思わず声にしていた。
奈々美は立ち止まって那雪の腰に手を回してしっかり抱き留めながら景色を眺め始めた。
「これよ、私が見せたかったの」
一つ一つが立派に伸びてそれぞれが細かな葉を広げて。辺りの木々とは目に見えて異なる質感が堪らなく美しい。
夜特有の霞と月明かり、夜のドレスを着こなすのは竹の群衆。風に揺られて舞う彼らは雅でありながら堂々としていた。
「昼に行ったらまた違った印象があるの」
奈々美の言葉に偽りはないのだろう。那雪は頷いて信じている証として見せた。
「なゆきちは一人じゃここまで行けそうもないからね」
当然のことだった。自転車で向かおうにも遠すぎてバスや電車に乗るにも金がかかってしまう。中学生が気軽に行ける範囲ではないだろう。
「また行く機会があったら多分奈々美と一緒の時」
恐らく奈々美と見た景色が、愛おしさを傍らに置いて眺めるものこそが一番美しいだろう。那雪はそんな想いをこの場所で学んだ。
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