第43話 あの日から

 那雪は岩を並べて固め作られた段にしゃがみ込んでいた。その階段は浅く緩やかな川で遊ぶ人が安全に降りることが出来るようにと作られたもののよう。川の流れに逆らおうと必死に尾びれを揺らす透明な魚たちがいたものの、それも叶わずに少しずつ流されて行った。時間の流れというものに逆らう事など出来ない。

 下の段は川に冷やされてひんやりとした心地が蔓延っていて、まさに悲しみに暮れていたあの日の那雪を無意識に誘い込むにはうってつけだった。

 あの日の薄汚れた制服は一年間の学校生活と洗濯によって癒えることも無く、那雪の心も完全には治らないのだと思い知らされた。

 学年が一つ上がってからあのいじめ集団は殆ど離れ離れ、那雪に対するいじめもまた自然と解消されて行った。

 しかし、壊された一年は戻って来ることもない。あの日々に踏み荒らされた心をどれだけ整えたところで痕跡を隠し通すことなど出来ない。

 那雪は今、好きな人の到着を待っていた。

 涼しい川はどれだけの時間を流して行っただろう。いつまで那雪の身を離さないのだろう。魅力は語り切れない程に充ちている。

 揺れる草に癒されながら、周囲の車の行き来や橋の姿、人々の立てる足音といった様々な物が生きている。奈々美の到着まで落ち着いて過ごすことが出来るこの場所はあまりにも愉快で、去年の那雪に届いていない事が不思議な程。

 きっとあの日の自分には何一つ届かない、なにも響かなかったことだろう。

 那雪のほっそりとした身体を抱き締める柔らかさを得て、思わず震えながら身体を一気に伸ばしてしまう。

「あらあら、こんばんは」

 低く落ち着いた声はいつでも耳に心地よく届く。奈々美には不思議な力が宿っているようだった。

 奈々美は那雪を抱き締めたまま川の流れを見つめる。それから数秒の空白が愛おしく、美しくありながらも長く感じられた。

「この景色、一年前とどう変わったのかしら」

 奈々美に訊ねられても開く口が無い。これに限っては誰かに語る事でもなく、苦しみも今の心境も出来る限り仕舞っておきたかった。

 那雪は軽い笑い声を空気に乗せて奈々美の腕に手を添える。

「内緒」

 奈々美は腕を離して隣に座る。彼女の中では那雪は余程大切な人物なのだろう。今も変わらず毎日のように会ってくれる。

「なゆきちったら一年ですっかり回復しちゃって」

「奈々美のおかげ」

 嘘偽りの糸が一切絡み付くことの出来ない言葉はただ真っ直ぐでどれだけ薄汚れた人物のものであっても純白を保っている。

「ありがと、これからもよろしく」

 那雪の肩に頭を乗せながら奈々美は言葉にした。

「一生よろしく」

 うねる薄い色をした茶髪は那雪の無理やり伸ばされ傷んだ癖毛とは異なり傷を感じさせない。優しく揺れながら那雪の頬をしっとりとした心地で撫でている。

「奈々美の髪大好き」

 那雪にはそこまで綺麗に手入れが出来る自信が無い。気が付けば所々ほつれのように異なる髪質を感じさせる悲惨な有り様を演出してしまう事だろう。

「嬉しいわ、なゆきちが好きでよかった」

 一年の流れを振り返る。これまでの輝かしい日々から奈々美の誕生日は四月二日だという事まで。

 奈々美の首に輝く翡翠は那雪が母に頼み込んで買ってもらったものだった。カシミヤのマフラーの事情を知っていたが為に友人の為と快く受け入れてくれたものだ。

「翡翠よく似合ってるよ」

「ありがとう、私は色が濃いものの方が似合いやすいの」

 日頃から那雪が決して袖を通さないような色使いに染められている奈々美に似合うものと言えば派手な色、といった単純な考え方で宝石を選んでしまったものの、成功のよう。

「宝石は普段魔法関係でしか使わないけど」

 魔法の為に日頃から扱っているという事実に那雪は驚きを隠せなかった。

「高いんだよね」

「本気の時ほど高いものを使うわ」

 那雪が贈ってくれた翡翠を肌身離さず持っておくにあたって護身用の魔法を閉じ込めようとしたそうだが何故だか上手く行かなかったという話を聞いて、那雪は首を傾げる。

「私には扱えない意志が宿っているわ、魔力すら感じられないのに」

 那雪の手に触れ、細長い指を包み込んで目を合わせて訪れた沈黙の五秒間。落ち着いた時間を経て大きく息を吸い、訊ねる。

「もしかしてなゆきちの力かしら」

 分からないようだ。上手く感じ取ることが出来ない。まるで奈々美の修める魔法の外側のよう。

「たまにいるの、私には分からない魔力を持つ人が」

 奈々美の瑞々しい肌に、綺麗な首に掛かる深い緑の翡翠は何故だか今にも燃え上がってしまいそうな印象を浮かべていた。



  ☆



 そうした綺麗な時間も終わりを告げて家に帰る。ドアを開くと共に母が出迎えて、ニヤつきながら訊ねる。

「今日もお友だちに会って来たんでしょ」

 微笑みながら一度頷いた。反応に満足したのだろう。ニヤつきは純粋な笑顔に変わる。

「最近よく笑うようになったもの」

 母はしっかりと娘の事を見ていたようだった。

「やっぱり人と人の繋がりが一番大切ね」

 そう締めくくる母に同意の変事を示して二人はそのまま晩ごはんの支度を始めた。

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