第42話 木漏れ日

 空を舞う。箒はただの支え、飛んでいるのは魔女の作った薬の作用であるという意見が見受けられたものの、奈々美はまず間違いなく魔力と風や重力の流れを視て飛んでいるようだった。

「どうかしら、飛ぶ感覚にも慣れて来たでしょ」

 奈々美の声はしっかりと流れて来て、那雪はすぐさま頷いた。

「それは良かったわ」

 風の流れゆく中で奈々美だけが言葉を発していた。那雪の声ではきっと風に切り裂かれて失われてしまうから。

 空を突き進み、那雪の前髪は乱れ、括っている後ろ髪は風に従って激しい揺れを見せる。妙な浮遊感は初めて乗った時には慣れないものだと思っていたものの、今では感覚がしっかりと身に着いていた。染み込むようにじわじわと慣れて行ったものだった。

 進み続けて広がり始めた景色に目を奪われてしまう。空以外に見える景色が統一されている。ほんの少し下に広がる森と遠くに行く程純粋に変わる空との境界線。緑と淡い青は目に映る景色の全てとなっていた。

「いいかしら、これから降りるわ」

 奈々美の言葉に相変わらず無言で頷く。下に広がる緑の絨毯は目が粗く、更に下に降りて行けば木々や葉といった組織を見つめることが出来るだろう。まさに繊維まで確認する気持ちだった。

「しっかりと掴まって」

 声に対して頷くのみ。奈々美は箒を下へと傾け、一瞬固まる。それからすぐのこと、箒が進み始める。憧れの青は遠く、ザラザラとした緑が広がる世界が近くへと迫って来る。

 加速、風は強く、箒は揺れる。綺麗な着地は出来ないものだろうか。

 やがて緑の中へと突っ込み始める。那雪は奈々美の肩に掛けられた鞄が二つ、風に乗って揺られている様を目にしていた。一つは恐らく財布などが収められたものだろう。いつも通りの焦げ茶色の小さなもので、もう一つは紺色。日頃見かけるものよりも随分と大きく感じられた。

 更に進み、ようやく地をつかんだ心地がした。落ちる時の激しい揺れの押さえは収まり、目の前には豊かでありながら素朴な自然が待っていた。

「着いたわ」

 様々な衝撃や衝動は何事も無かったかのように静まって、いまでは奈々美の鞄も柔らかな身体に掛かっていた。しかしながら大きな鞄はもぞもぞと動いている。落ち着きという物を知らないようで、薄っすらと形を変えながら常に動いていた。

「そうね、いいわ」

 動く鞄を開くと共に飛び出して来たのは黒猫。きっと連れて来たかったのだろう。

「いつ見ても可愛いわ」

 あまり鳴くことも無ければ激しい動きが見られることもない。大人しい猫は那雪の脚にすり寄りそのまま身体をこすり付ける。

「まだ暑くもないけど涼しい沢に来てしまったわね」

 行き先など初めから決めていたくせに、毒づきそうになる唇を撫でるように押さえて微笑む。続いて那雪は沢に駆け寄り靴を脱ぎ、足を水につける。緩やかな流れはひんやりとした温度をもたらして、辺りの岩々にまで冷たさを移していく。

 那雪の脚を覆うものは七分丈の空色のジーンズ。薄っぺらな生地が那雪の細い脚の形をほぼそのまま見せつつ覆っていた。

 腿から膝に向けて細まって、そこから伸びるふくらはぎは外側へと湾曲している。細くて頼りない脚を水の中でゆらゆらと動かして日差しが映す川流れの模様に照らされた白い肌を見つめる。

「なゆきちは上品な感じね」

「奈々美は色っぽいよね」

 全体的に分厚さと肉感を持った身体は知らぬ内に男たちの視線を奪っていることもあったかも知れない。それでも奈々美は男たちには興味の視線を返すことも無くただ那雪という一人の少女を愛するという道を駆けて行ったのだ。

「奈々美絶対すぐ恋人出来るでしょ」

 間違いないだろう。肉感的な美人はあまりにも美味な果実。みすぼらしい那雪とは同じ生き物には見えない。

 奈々美は那雪の隣、今にも触れてしまいそうな距離で言葉を紡ぐ。猫は那雪の膝の上であくびをしながら丸まっていた。

「私が好きなのは男でも女でもなくてなゆきちだもの」

 誰であってもこの気持ちを動かすことなど出来ないだろう。どのような言葉でも奈々美の心を那雪以外の人の下へと追いやる事など出来ない。

「子どもは、私には作れないから。火の事で」

 かつて火の魔法を使う時に失敗した。その時に子を授かる事の出来ない身体になってしまったのだという。

「そっか」

 東院一族の脈はこの代で終わり。権威も何もかもが消え失せてしまうが為に奈々美は親の束縛に襲われない時は好きなように生きているのだという。きっと親も既に奈々美を金のために生かしているとしか思っていないのだろう。

「この力を受け継ぐのは一族に一人だけ」

 奈々美の笑みは何故だかこの上なく爽やかに見える。もしかすると彼女もまた、那雪や猫と同じ、気ままに生きたいだけなのかも知れない。

「無くなったものはもう無いから仕方ないね」

 那雪の顔もまた、明るみを帯びる。

 陽光の差し込む景色は美しくて、地面を照らす眩しい明かりは焼くほどの暑さを持たず、沢の清らかな様と混ざり合ってまろやかな味わいを体で表していた。

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