第17話 宿題
夏休みは終わりを迎えようとしていた。長い休日、毎日のように楽しく過ごしていた明るい日々は今にも思い出と変わり果ててしまいそうだ。
太陽は未だ高い所から日本を見おろしているものの、居残ることを許されたのはわずか数時間。景色の中に色付く眩しい破片たちはきっと毎日描いて来た夢の跡。
熱は何処を歩いても漂って来る。どこまででも追いかけて来る勢いを持っていた。
そんな暑くも美しい自然とはかけ離れた場所で二人向かい合って座る。
人の出入りや廊下を歩く姿、様々な足音や多様な声が流れて楽しそうに話す姿やどうやら深刻な相談を行う者、悲しみに顔を伏して太陽から逃げるように駆けこんで来たと思しき人々、様々ではあったもののこれも人生という旅のワンシーン。
ファミリーレストランという名称は既にその名の印象から遠く離れてより大きな存在と成ってしまったようで。
そんな大きな意味に包まれた空間のテーブル一つ借りているという状況。
那雪は薄水色のシャープペンシルによる軌跡を描き終えようとしていた。一方で奈々美はと言うと、ピンク色のシャープペンシルの身体に閉じ込められたショートケーキを見つめながら宿題を進めないという。
「なゆきちみたいにカワイイ」
もはや宿題を進めるつもりはないのだろうか。那雪は呆れ混じりに訊ねてみた。
「ちゃんと進んでるの」
潔い表情で首を左右に振る。本日は全くもって進んでいないという状態なのだそう。
「終わったら少し寄り道するんだったよね」
「ええ、勿論、分かってるわ」
本当に分かっているのだろうか。那雪は頭を微かに傾け力の抜けた吐息を零す。
「その目とか顔とか大好き」
那雪が時たま浮かべる歳不相応の大人びた表情を良く愛しているようで、奈々美はそう言った貌をする那雪の姿を見る度に笑顔を輝かせる。もしも本当に那雪が大人となった時、奈々美の想いはどのような姿を取ってしまうものだろうか。想像も付かない。
「私はおしまい」
そう言って那雪が宿題を片付け始めたその瞬間である。
奈々美は目にも止まらない速さでペンを動かしすぐさまそのページを埋めて宿題を閉じてしまった。
「ごめん、来た時から残り三ページだったの」
つまるところ、いつでも終わらせようと思えばすぐに出来たという事。きっと那雪のやる気をそぎ落としてしまわないように構えていた心遣いの一つだったのだろう。
「じゃあ、ちょっとデザート食べて行こうかしら」
そう言って奈々美は呼び出しボタンを押してショートケーキを頼む。恐らく来店した時から食べたくて堪らなかったのだろう。那雪は小さな杏仁豆腐を頼んで奈々美の薄茶色の瞳を覗き込む。
「奈々美はその目で何を見てきたの」
「ずっとなゆきち」
真面目に答えるつもりは初めから無いのだろう、或いは何かを見つめる中でも楽しい景色の殆どに那雪がいたのかも知れない。傍にいる時間は明らかに長く、ここ数か月で顔を合わせない日の方が多いはずなのにその日々が思い出せないのだという。
そんな明るみを見つめる瞳が那雪とは正反対だった。
那雪の赤みがかった茶色の目、高貴なコーヒーを宿したような雫に映る澱み、会えない日の苦みや寂しさ、息苦しさを、部屋に積もってもいないはずの埃を感じて気が重くなる心情は味わったことが無いのだという。
「そっか、人によって変わって来るものね」
奈々美は見えない景色に身を焦がしながら薄っすらと感じられる香ばしさの情を舌の上で転がしながら運ばれてきたショートケーキの滑らかな食感を見つめていた。
「なゆきちの方こそ何を見てきたのか教えて欲しいわ」
那雪は思い返す。明るい日々の中にも苦しみは大量に紛れていることを。思い出すだけで生まれたての鮮度を保ったままの憎しみが渦巻いて来るということ、人々が放り込んで来るどす黒い生活。無理やり飲み込んで来た汚れ切った心情たちの一端を奈々美に話すことなど出来なかった。
「ずっと……奈々美かな」
「なゆきちも一緒じゃない」
嘘を付いた。背に掛かる重たい架空の力は大切な人の穏やかな空気を保つために必要だと分かっていてもやはり罪悪感を拭い去る事は出来ないもので。
嘘くさい笑顔を塗りつけながら奈々美の想いの清き色を踏み荒らさないように気を付けて。
「ねえねえなゆきち、食べたら行こうか」
スイーツの中では甘さ控えめな杏仁豆腐に感謝を込めながら日々の重さにもたれてしまいそうな胃の中へと流し込み、立ち上がる。
会計を済ませて外へと出た途端、奈々美は裏の方の壁に立てかけていた箒を手に取り那雪を乗せて。
それから向かった先は花畑。
山の中に作られた空間は趣味なのかそれとも販売なのか使わない季節に植えるようにしているだけなのか。
素人には何も分からない。若い、調べる手段もない。しかしそれでも綺麗な景色に見惚れることは許されていて。
ふたりはしばらく瞳いっぱいに広がるカラフルな畑に見惚れて声の一つも零れないという感覚を知った。那雪の中に息づいていた暗がりはいつの間にか身を潜めていた。
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