第38話 水族館
日曜日が貴重な日。母が語っていたその言葉の意味を本当に理解出来る日は未だに来ない。休日の回数は長期休暇を除けばそれほど変わらない業種もある。そう語っていた。しかし、そんな労働生活の中でもやはり今の休日よりも一つが重たくて大きな安らぎになるのだという。
そんな話を聞かされた直後に行く場所。奈々美の飛行によってたどり着いたそこは水族館と書かれていた。
「なゆきちはお金あるかしら」
那雪の財布にはこれまで考えたことの無い枚数の紙幣が収まっていた。これならば水族館に行くことも容易。ただし、何度でも行けるほどの金額ではなかった。
「入れそうで安心だわ」
奈々美の言葉に沿って歩く。券売機はすぐ目の前にあり。中学生は大人の料金で数えられる。この場所においては子ども扱いはしてくれないようだ。他にも電車やバスと言った交通機関からも大人だと告げられていた。
そんな事実を見つめながら那雪は思う。自分が大人になったような気など少しもしない。寧ろ今の若さは周りの大人と比べるとやはり子どもにしか見えない。どのような視点を持てば自分を大人として、あのくたびれた人々、責任を背負った重々しい瞳を自分が宿しているようには思えないのだ。
券売機で一枚、不思議な質感の薄っぺらなものが出て来る。那雪は手に取って、隣で同じように入場券を買う奈々美の手付きに大人の所作が織り込まれている。
彼女は間違いなく大人、那雪の頭はそう感じ取っていた。
すぐさま係員を務める壮年の男に入場券を差し出して二人は入って行く。
入った途端に広がる光景はまさに一つの世界の姿。青で満たされたそこは独特な気配を纏いながら美しさをしっかりと根に色付けた芸術品。ガラスの向こうでは様々な生き物や泡が泳いでいる。本なのか映像なのか、何処かで見かけたことのある名前すら知らない魚からよく絵に描かれる馴染み深い生き物まで取り揃えられていた。
チンアナゴが白とオレンジのしま模様を持つ身体を伸ばしながらくねくねとうねる。つぶらな瞳でどこかを見つめてそのような動きを見せる魚が地面から生えている。海藻を思わせる姿に思わず微笑みが滲み出てきた。
「そうね、愛おしいわね」
那雪の表情を見て軽く声を掛ける。きっと奈々美もまた同じような情を抱いているのだろう。
順路に従って続いて行く。広場を進んで現れた廊下は先程と比べて少し狭いだろうか。照明も弱まり小さな水槽が並ぶ。
そんな箱に収められているのは白いドレスのような広がりを見せるクラゲたち。時間ごとに色を変えるライトを浴びて彩りを与えられている姿は見ているだけで癒しとなって心に染み渡る。彼女たちの海中の舞いは優雅で、少しだけ羨んでしまった。
奈々美が突然手を伸ばして何かを指す。那雪の目は奈々美の手が示す方へと従って動く。
目に映ったそれは深海を歩き回る虫のよう。
「グソクムシよ」
ダンゴムシを思わせる姿とその大きさに嫌悪感を覚えながらどうにか見つめる。那雪の中ではどうしても可愛いとは思えない。
「私は大好きだけどなゆきちは好きそうじゃないわね」
「ゴメン、虫は」
それから廊下を進み続ける。エビやカニ、そうした生き物全体を虫のようだと語る奈々美の声をどうにか聴かないように手早く進んで行く。
やがて廊下を抜けた。
出迎えた景色はまさに海の中を走るトンネル。或いは大海の大空だった。
目に収まる数々の生き物はみんな混ざり合い、活発に泳いでいる。サメが幾つか見られたものの、それぞれが異なった姿を見せていて、那雪はそのような小さな違いに目を輝かせていた。
そんな中に目立つ存在が泳ぐ。透明な壁に張り付くタコとは異なる海の凧。大きな翼を広げて海の空を滑る姿は那雪の目を奪う。
「エイだね」
「エイね」
二人同じ言葉を零す。それだけしか言えない程の大きな彼。言葉を失ってしまう程に壮大な生命の神秘を身体に秘めているように思えてしまう。
続いて那雪が最も楽しみにしていた水槽にたどり着いた。
先は細く、しかしながら丸みを帯びた顔、背びれや尾びれは何故だか可愛らしく思えてしまう。
目の前を通り抜けて旋回して泳ぐ姿、スリムな身体は差し込む光を受けて輝いて。
「奈々美、イルカってどうしてこんなに可愛いのかな」
そんな疑問に応える落ち着きに満ち溢れた低い声は答えを示していなかった。
「グソクムシの方が可愛いわ」
イルカに見惚れる那雪、壁に寄りかかって全体の景色を見つめる奈々美。水槽の向こうには生き物以外の姿が見当たらなくて奈々美はため息をついた。
「青だけだと疲れてしまう」
那雪は奈々美の顔を見つめて、手を握り締める。
「そうかもね」
それから歩いて十分経っただろうか。目の前を過ぎったペンギン。散歩中の彼らを見つめては癒しを得ながら追いかけるように進んで行く。周りに手を振るジュゴンに手を振り返しながらペンギンを追いかけ続けてやがて見えてきた分かれ道で別れて二人は水族館を後にした。
そんな二人の笑顔は水の世界に濡れることなく晴れ晴れとした様を見せていた。
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