第37話 バレンタイン

 あの時、豆まき。今日はあの日構えたその日がやって来た。

 未だに寒い空気はここに漂っている。空は心なしか凍てついた色をしていた。

 那雪は一つの楽しみが来たのだと楽しみにしていた。昨日の那雪の行動を振り返って世界の中に笑顔を混ぜ込んだ。どうやら親が実家に帰った時にいただいたお年玉を使ってチョコレートを買い、湯煎で溶かす。その時母がニヤニヤと顔を歪めながら好きな人出来たんだと訊いて来る。訊ねるというよりは揶揄って来るような声のトーンに嫌気を覚えながら那雪は作業を進めていた。

 親は一度きりの人生だからしっかりとぶつかっておいでと呟き嗤っていた。期待など初めからしていないようで、続いて成功すればいいね、などと声を掛けて来るもののやはり全く異なる本心が見え隠れしていた。

 そんな一日を思い出しながらも笑顔を向けることが出来る理由など奈々美以外にありはしない。全ては彼女の為なのだから。

 学校から一度家に帰り着替える。セーターとコートを纏って今の恰好が制服とあまり変わらないことに気が付き思わず静かな笑いを声にした。少し可愛いだろうか。那雪は鏡で全身を見て、顔を見つめてため息をついた。この顔ではどれだけ努力を重ねてもあまり変わらない。奈々美の想像では大人になったら、三十へと近付いて来れば落ち着いた格好の洒落た雰囲気に追いつく。とのことだったもののその時は果てしなく遠く感じられた。

 那雪の想いはもはや自分に向ける事など無意味なのだと諦めていた。これまで自分を見捨ててきた様々な人々と変わりない。その程度の事。

 ドアをくぐり抜けて外へと向かい、冷たい川の流れを見つめる。心まで冷やしてしまいそうで、寒がりの那雪には耐えられる気がしない。きっとこれからも寒がりの細い身体で生き続けることだろう。

 公園を隔てる川と道路を流れる川が合流する地点。公園の隅がそのような姿をしている。

 川の氾濫と共にこの辺りは危険な地帯と変貌することは確かなことで、その時が来るのが恐ろしい。水は恵みでありながら脅威でもあって、命を運命に乗せて流すものでありながら時として三途の川となることもある。

 命を与えることも奪うこともきっと彼ら、自然の気まぐれ。

 那雪は想いを仕舞って前を向く。

 寒空は川の流れの向こうで触れ合っている。このまま流れてしまえば空にたどり着けそうな気がしてしまう。

 待ち続ける間の空想は誰かに共有できるものだろうか。奈々美にさえ話さない程度のもので、もしかすると永遠に仕舞っておいてやがては忘れてしまうものかも知れない。

 幼き日にのみ許された魔法はやがて煙となって消える日まで。大人になる事の虚しさは様々な人々に聞かされていたためにそこへとたどり着く瞬間が恐ろしくすらあった。

 那雪の姿をいつの間に捉えていたのだろう。にこやかな表情がひたすら愛情を注いでいる様を目にした。

「着いたね、こんばんは」

 奈々美は一度お辞儀をして那雪と向き合う。

「今年で凄く楽しみだった日がついに来たわ」

 そう語る表情は真剣そのもの。奈々美は那雪に箱を手渡した。派手なピンクの包みは那雪の手に上手く馴染まなくて、燃え盛る紅のリボンもまた同様。全くもって似合うことなく、まさに主役に相応しい色合いをしていた。

「開けてごらんなさい」

 そう告げられるものの、那雪は先に淡いピンクと白の縞模様の入った小さな包みを手渡す。

「大好きだよ」

 直接的、直線的な言葉。飾りも無ければ洒落てすらいない、言葉の化粧が塗られていない言葉に奈々美の頬は熱を帯びた。

「嬉しいわ」

 それから二人並んで丸太の椅子に腰掛けて包みを開く。那雪が開けた包みに入っているものはチョコサンドラングドシャと書かれた箱。載っている写真からして薄いクッキーにチョコを挟んだものだろうか。

「どうかしら、ネコの舌」

「なにそれ」

 話によればラングドシャはネコの舌という意味なのだそう。

「猫みたいななゆきちにぴったりね」

「共食いみたい」

 物騒な感想を飛ばしつつ開けて早々に齧る。軽い食感が優しくて、ザラザラとした舌触りが目立つ。チョコも控えめな甘さを歌い、カカオの香りが少し強いだろうか。それがバターの味わいと混ざり合って食べやすい味わいとなっていた。

「美味しい」

「優しい味とか儚い感じがなゆきちっぽくて好きなの」

 どのような印象を抱いているのだろう。微笑みつつも戸惑いを隠せないまま。

 奈々美も箱を空ける。そこに収められたチョコを見つめて目を見開いた。

「え、凄い」

 驚きはあまりにも大きく、那雪にとっては不自然な感情にすら見えて来る。

 チョコレートにはドライフルーツが埋め込まれていて、まさに宝石のお菓子のような有り様。

「奈々美に似合いそうって思って」

 派手なそれを見つめながら目を輝かせる。

「ありがと」

 たった一つの宝を抱いて、奈々美は頬を緩めながらチョコを頬張る。

 きっと彼女にとっては一生忘れられない思い出となったことだろう。那雪はこの時間が運命の川流れの中で永遠の幸せになる事を嬉しく思っていた。

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