第36話 節分

 この日は学校という大きな時間の縛りがあった。全ての単元を終えてから訪れたいつもの公園。未だに寒いままの空を見上げながら那雪はベンチに座っていた。

 この日は二月の三日。立春の前日という事で節を分ける日。

 那雪は暇という事実に身を震わせ、虚無の時間に凍えていた。

 ちょっとした時間の隙間に宿題を進めればいいのかも知れないが学校の中で既に終わらせてしまっているという事実に暇潰しの手段が潰されていた。

 暇をただただ空気に乗せて流している那雪の傍に寄る女が現れた。いつもの通り、ローブを纏って訪れる彼女。いつも魔女の恰好をして現れる奈々美がかつてあまり制服姿を見せたくないと語っていたが、いつの話だっただろう。思い出せないまま奈々美は肩に掛けた黒い革の鞄に手を突っ込む。

 引き抜かれた手に握られていたのは大豆だった。

「今日は鬼を討伐する日だわ」

 言い方が物騒に思えた。せめて追い出すとは言えなかったものだろうか。

「鬼なんて根絶よ」

 そう言って大袋の端を切って個包装に分けられた大豆を取り出す。その包装すら開いてそのまま口へと一気に放り込んだ。

「なゆきちも鬼を斬るの」

 そうして差し出された豆を受け取った途端、奈々美は言の葉を授ける。

「これは魔を滅する聖なる武具。本来ならこれを射るのだけど」

「豆を炒るんだったね」

 那雪の言葉に満足を得たようで奈々美は大きく頷き豆の袋を開く。

 左手の親指と人差し指に挟まれた豆を那雪の口へと近付けた。

「聖なる力を取り入れて内側から厄を焼くの」

 突然独自の言葉が挟み込まれて一瞬だけ戸惑うものの、それだけ。那雪は色っぽい指に見惚れてしまっていた。

「さあお食べ。女の子らしさを取り入れるの」

 そのまま奈々美に返したい言葉だった。今の状況は明らかに中学生の男子が好むものだった。

 しかし口にしたものは言葉ではなく豆。取り入れると共に那雪の中の魔は滅していなくなったような気がした。

「どうかしら、奈々美おねえさんに食べさせてもらった豆は」

「今日どうしたの」

 那雪にとっては明らかに様子がおかしい。そう思えども口に出せない。奈々美の目は明らかに正気。いつも通りに那雪を見つめるあの色をしていたのだから。

「ちょっとふざけて見たかっただけ」

 きっとそれだけなのだろう。遊びに過ぎない。

 やがて奈々美は再び鞄に手を突っ込み何かを探る。

「これはまあ本当ならもっと本格がいいものの」

 言葉と共に現れた道具に那雪は目を見開かずにはいられなかった。言葉を宿さないまま開かれた口が閉じなくて。

 赤いお面を被り、奈々美は両腕を上げる。

「鬼だぞガオー」

 先程追い払ったはずの魔がそこにいた。赤い顔は怒り顔なのか酔っ払いなのか。那雪には詳しい事が分からないものの、少なくともここでは鬼を退治しなければならない事だけは間違いなかった。

 魔女の艶やかな雰囲気は消え、深く黒い気配を纏っていた。憎悪の煮凝りのようなそれは那雪に恐怖心を植え付けるには充分すぎた。

「ほらほらなゆきちの事食べちゃうぞ」

 迫り来る鬼から放たれる言葉は何故だか愛情に充ちているように聞こえてしまう。

「ガオー」

 那雪は豆の袋を開き、豆をつまむ。奈々美と比べて細く長い指が力なく見えてしまう。

「指から貪ってやろうかしら」

「そこまで」

 那雪は鬼の面を下からずらして豆を口へと入れ込んだ。柔らかな唇の膨らみは潤いに充ちていて、那雪は指から全身へと伝わる艶がかった温もりに想いを任せ、身を流す。

 奈々美はいつの間に鬼の面を外していたのか、那雪がいつも見つめる顔に戻っていた。

「なゆきちの指綺麗ね」

 明らかに煩悩の鬼は祓いきれていない。こうした関わりの色、禁じられた情こそが歴史の上で幾つもの争いや関係の拗れを生んで来たという事。

「ありがとう」

 本音はひとまず仕舞っておくことにした。きっと奈々美も甘えたい時なのだろう。この時の判断は正しかったのか、今でも分からない。それでも特に影響が未来に訪れないのなら問題はなかった。

 奈々美はそのまま豆を食べながら、那雪にも分けながら、雑談を進めた。

「ところでバレンタインが近いわね」

 そう、今という時が過ぎ去ってすぐさま訪れる日。恋人にチョコを贈る日だ。

 那雪は頭を抱えた。先程色気ある感情を否定したという問題がすぐさまやって来たのだ。二週間程度を経て設置されているという事実に打ち震えていた。

「今は節分を、と思ったけどもうやる事やったわね」

 この時代、この地域ではそれだけの事。豆料理を作らないとなればあまりにも寂しすぎるイベントだった。

 空はすっかり暗くなってしまった。冬の夜の訪れの速さに那雪は思わずため息を吐く。闇、景色をも包み込む黒、心細さを呼び起こすそれは悪鬼のよう。

「帰ろっか」

 奈々美は公園の時計を見上げ、灯りに照らされた盤を見つめて言っていた。

「早過ぎて少し寂しいけど危険だからね」

 そうして二人それぞれの道を歩み行く。互いの姿は深い闇の中に隔絶されているようで、遠く感じられて。

 那雪の中の心細さは膨らみ続けた。

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