第40話 桜

 空は柔らかさを得た。気温は姿一つで人の目に映る景色の在り様を変えてしまうものだろうか。見渡す限り広がる淡い空は雪解けの色。風は機嫌が良いのか温かで優しくて。しかしながらひんやりとした空気は薄水色に色付いていて少し不釣り合い。さくら色の雨と混ざり合って華やかな姿を現し目の前でゆったりと踊り明かしている。

 那雪はようやく訪れたこの季節をしっかりと抱えていた。寒さに震える日々が過ぎ去ったことに微かな喜びを得ると共に好きな人にもらったカシミヤのマフラーの出番がしばらくお預けだという事に対して寂しさを抱いて目を細める。

 快適な気温の中で手に持つものは缶に入った甘酒。少しでも雅な桜に和を感じたいと思ったその時に見いだした選択肢が緑茶と抹茶と甘酒の三択だったのだ。大人になれば日本酒などを片手に公園の芝生でビニールシートを広げて愉快な飲み会が始まることだろう。しかしながら今は中学生。大人の世界はまだまだ遠いところにあるように感じてしまう。

 隣で梅の香りを漂わせながら酸味溢れる炭酸ジュースを飲む奈々美の姿を眺め、那雪は思った。


 奈々美は四年も早く大人になるのだと


 今年中学二年生への階段を上ったところで同じ時をもって高校三年生へ、人生の大きな分かれ道の学年へと上がっていく。この年も終わってしまえば那雪が高校へと上がるための苦難に立ち向かうだろう。しかしその時には奈々美は既に高校を卒業してしまう。それ以上の学校に進むのか就職するのか。奈々美の様子を見ている限りは魔法の世界に入り浸って働く方向へと進むだろう。

 那雪はどのような方向へと向かうのだろうか。魔法が隣にある日常とは、魔女とは関りを絶って現実へと帰ってしまうのだろうか。それとも幻想を現実として取り込むのだろうか。

 一足先に大人になってしまう。追いつくことの出来ない距離がそこにある。手を伸ばしても駆けてみても埋まることなく平等に進むだけのそれはどこまでも残酷で、いつまでも全ての生き物を見張っているようだった。

 桜の花びらが生きる者全てに祝福の輝きを散りばめている。歓迎は当たり前だと主張しているよう。

 公園をまばらに歩く誰も彼もが目を向けて宙を滑る淡くて派手な君の姿を追いかけずにはいられない。

 那雪はメガネ越しの景色でも、世界に一つガラスの層の入った視界でも美しさは損なわれないのだと確かめ心に沁み入るピンクの破片に手を伸ばして触れる。


 そうして今ここにある景色を堪能している那雪の姿を見つめて奈々美は幻想を描く。

 大好きな人の姿に桜の花びらがまぶされた光景は目に優しくて、しかしながら心には優しくない。

 見ているだけで想いが震えて、那雪の身体に腕を回したくなってしまう。人々が見ているこの場所では決して超えてはいけない一線を見つめて立ち止まる。

 ペットボトルの蓋を開ければ梅の香りが桜の色と絡み合い、口に含めば済んだ空気に弾ける炭酸の刺激と力強い味わいが広がっていく。

 目の前で甘酒をゆっくりと飲みながら景色に見惚れる彼女は何を想っているのだろう。

 その目に宿る感情はどのような物だろう黒い髪も紅茶を思わせる瞳も奈々美と那雪の目と目の間に立ちはだかる薄い壁も、全てが底知れぬ距離を開いているように見える。

 桜吹雪と呼ぶには物足りない散りざまも那雪の細い身体や弱々しい表情と混ざり合ってしまえば猛吹雪のように思えてしまう。この世で最も柔らかで緩やかな薄ピンクの雪景色は奈々美の心にまで降り込み吹き込み温めてくれる。

 温度は魔女の居服の心地に不快な感触を与えて来る。しかしながら那雪の満足感むき出しの優しい笑顔一つで暑さが和らいでいくような気がした。

 那雪は再び甘酒に口を付ける。米から作られたジュースの味はきっと那雪の口の中に豊かな味わいと香りを広げていることだろう。奈々美には甘酒の魅力がよく分からない。飲めば分かるだろう。すぐにでも確かめる事は可能。しかしそれでも彼女の見ている味わいが理解できるのだろうか。

 空の色が白んで行く。過ぎ去る時間の中で明るい内に那雪の姿を目に焼き付ける。少しだけ掠れて見える白の柔らかなシャツに股上の丈が長いジーパンを纏って立つ姿からは清い雰囲気をしっかりと感じていた。

 すぐ隣に立つ桜の木は強きに構えた黒っぽい茶色の身体を主張しつつ景色に上手く馴染む。そんな色彩の対比が新しい美しさを呼び起こし、ただ一つの幸せを絵画にして塗り付ける。

 奈々美は心に決めた。帰ったら那雪と桜を題材に絵を描こう。魔女の色使い、筆使いを存分に発揮して美しい作品にしようと心に誓う。

 そんな意気込みを心に隠し、薄茶色の目の揺らぎを抑えてただただ見つめ続ける。

 絵描きの話は魔女の秘密。那雪に一度たりとも明かしたことの無い趣味だった。話そうとするだけで身体中に熱が回り、居ても立っても居られなくなってしまう。

 そうして大好きな景色をただひたすらその目に焼き付け続けるだけ。


 月は昇り、準備を済ませていつ太陽が沈み終えるのか、いつ顔を覗かせることが出来るのかと待ちわびていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る