第5話 ドーナツ
空を泳ぐ羊、綿のような雲が途切れ途切れで海を流れて行く。今日はあまり暑くはなく爽やかな大海。この広い自由を余すことなく身に浴びて泳ぐ鳥たちはどのような景色を見ているのだろか。
那雪はかつて奈々美の魔法で箒に乗って空を飛んだことを思い出す。あのミニチュア世界を二人して眺めた思い出はあまりにも甘くありながらも大人の味わいを持っていて、まるでキャラメルのよう。
今日は果たしてどのような世界を見せてくれるのだろう、どのような世界の話を分かち合うことだろう。那雪には想像も付かない。
楽しみは空に弾けて太陽のさざめきは乾いた雨として注がれていく。想い焦がれて恋焦がれて、奈々美と過ごすことの出来る少ない時間を大切に焼いていた。
そうして待ち続けた十五分、沈黙に沈んだ時間の集団は過去のもの。奈々美の歩く姿は歳上特有の色気を持っていた。しっかりと伸びた背筋に真っ直ぐ突き出される体型の割に細い脚。今日も学校から帰ってから着替えてきたのだろう。もしも誰かが通りかかって来たなら途端に不審者だと思うことだろう。
大半の人物は常識という名のレンズを掛けて生きていた。
奈々美のうねる薄茶色の髪、泡を閉じ込めた空のような茶色のガラス玉の瞳。高くありながらも柔らかな線を描く鼻と肉感のある唇と頬。顔どころか身体まで柔らかで、全体が優しい人柄を語り見た者の目に焼き付けてくれる。
「なゆきち待たせちゃったかしら」
大人を想わせる低く落ち着きつつも艶のある声は心にまで染み渡る魔力無き魔法。那雪はその美しさに魅せられながらみすぼらしい声を引き出した。
「そうでもない」
少しぶっきらぼうな枯れ気味の声は表情の柔らかさとはかけ離れていて、那雪の不器用な人柄を語るには二つのものだけで充分すぎた。
そんな那雪を前にして奈々美は自ら話を進めて行く。例えば昨日の怪我のことなど。
「大丈夫かしら」
「もう殆ど治った」
その言葉一つで創り上げられる笑顔があるものだから人と言う生き物は不思議なものだった。
「良かったわ」
ただの一度の冗談すら入れずに優しく接する様は肩の力を抜いてリラックスしている証と見ていいものだろうか。
「女の子の脚に傷口が残るのはイケナイもの」
「遂に奈々美の冗談が出た」
那雪はそこまで気にしていたのだろうか、軽い心の引っ掛かりすらないことを伝える手段としては確かに手軽で手短なのかも知れない。
「冗談じゃないわ、そう、冗談なんかじゃ」
奈々美の目から本気の温もりを感じて那雪は口を閉じた。予想外の反応が今そこに色付いていた。
奈々美は気まずそうにポケットから何かを取り出した。
「近所のおばあちゃんからもらったんだけど」
そう言って差し出された物は包装された薄茶色の丸い物体。丸い身体の内側には丸い穴がぽっかりと開かれていて、特徴的な姿から一瞬にして正体を理解させた。
「ドーナツ」
那雪が呟くと共に奈々美は満足の微笑みを向けた。
「当たり」
包装を破ると共に甘い香りが外へと溢れ出す。取り出されたそれ、中央に空いた穴を通り抜けるものは単純な食欲なのか分け合って食べて体験を分かち合いたい関係の欲なのか、今の那雪には理解できなかった。
知らない。分からない。そう語る瞳を見つめて奈々美はガラス玉のような瞳をきらめかせた。
「欲しいのね、安心して」
最初から分け合うつもりだったのだろう。まず初めにドーナツを掲げて穴の中を覗き込む。浮き輪のようなそれは青空の海を漂っているように見えた。那雪の目も同じように穴を覗いていたものの、その時間は急に終わりを告げて視界の行き場は失われる。
奈々美が柔らかな指に力を入れて割ってしまったのだ。
手渡されたドーナツを見つめる那雪からある感情を見て取ったそうで奈々美は首を傾げて訊ねた。
「丸ごと欲しかったのかしら」
「そうじゃないけど」
壊れた丸、半分に割れた浮き輪の菓子を受け取り答える。
「綺麗な円じゃなくなったねって」
奈々美は見つめながら数秒間考え込み、ドーナツを齧って微笑んだ。
「先っぽ切られた歪な三日月みたいじゃない」
「確かに」
半分に割れて端の尖りの見えない三日月ドーナツを見つめること一瞬の後、口へと運ぶ姿がそこにあった。
「やっぱり食べるのね」
「やっぱり食べるの」
それから奈々美は語り始める。
「私たちみたいだったね、あのドーナツ」
那雪には何も語れることが無かった。感情を巡らせても頭を働かせてもその言葉の意味を汲み取ることが出来ずにいた。
「人間は誰もが綺麗な部分を持っていながらどこか欠けてるの」
それは人生の中で見つけた答えなのだろうか。中には決して綺麗な部分を持っているとは言えない人もいるのではないだろうか。那雪の耳に届いた言葉には実感が見えなかった。
「ドーナツからそこまで考えれるの、羨ましいかも」
心の底にまで太陽の光が届いているのだろうか。那雪にとっては見えない底、それは明るさによって築き上げられているのかも知れなかった。
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