第4話 ケガ

 太陽の光が大地をも焦がす。人々が生活にて底に溜め込んだ苛立ちや暗がりの情を蒸発させて脳裏をかすめるところにまで引き揚げていく。

 那雪はこの梅雨入り前と言う時期の暑さには耐え切れるつもりでいたものの、今日の太陽の気まぐれがもたらした猛暑には敵わないと思ってしまう。

――いっそのこと梅雨入りしてくれたら

 そこまで考えた後に思わず首を横に振ってしまう。梅雨特有の湿気が与えて来るものと言えばくせ毛のうねりへの細工。一癖も二癖も加えては恐ろしい光景を作り上げてしまう。まさに美容の天敵、四季という神々の遊びによって困るのはいつでも現代人だった。

 那雪は気が付いていた。自分は並程度かそれより少しだけ暑さに強いのだということ。周りの人々はもっと美しいが為に熱を溜め込め易いようで。自分のみすぼらしい身体に感謝を捧げたのは初めてのことかも知れない。

 グラウンドにて列を作り走り始める。準備運動は順調に進み始める。那雪の身長は百六十の数値にまでは届かない程度のもので、それでも列の真ん中よりも少しだけ後ろの方に立つこととなった。目立つことが嫌な那雪としては先頭でないことに感謝していた。

 掛け声を合わせて足並みを合わせて。運動神経には自信がなかったものの何事もなく走り抜けることが出来ているように感じられた。少なくとも始まりの時点では。



  ☆



 陽が沈み始める頃、神社の社のすぐそばに建てられた屋根の下、大きな机に腰掛けながら白く澄んだ空を見上げながらいつもの通りに帽子とローブを纏った女、一目見ただけで怪しい恰好だと分かってしまう魔女と共に今日の出来事を話していた。

「そう。足がもつれたって言うより引っ掛けられたのね」

「如何にも偶然です、みたいな顔して笑ってた」

 奈々美は那雪の膝に色付いた痛々しい赤を見つめる。軽い怪我。多少の血。準備運動の途中でも抜け出して水で洗い流しただけだそう。

「ばい菌入らないか心配ね」

 痛みは膝を刺し、未だに肌が削れたことを叫んでいるようだった。那雪としては動かす度に駆け巡る痛みが鬱陶しかった。怪我したのはもう分かったからと言って終わりにしてしまいたかった。それでも身体は言うことを聞いてくれないのだ。

「血とかより痛みがね」

 他にも生々しいことを語ろうとしていたものの奈々美の手によって止められた。

「けがの状態とかいいからほら」

 奈々美は指を伸ばして那雪の傷口へと向けた。

「今から私が魔法で治すわ」

 一瞬だけ耳を疑いつつもこれまでの優しさに充ちた言葉や箒での旅を思い出す。きっと出来る、那雪はこれまでの道のりの信用に身を預けた。

 奈々美は目を閉じ、念じるように呟き始めた。理解はおろか那雪には発音すら入って来ない言葉。それが数秒に渡って空気を震わせる。音程すらつかみようもない音楽のように感じられた。

 やがて目を開けて奈々美はそのまま目を大きく見開いた。

「そんな」

 視界に堂々と映り込むものは先ほどと変わりのない傷口。あまりにも明らかな失敗に動揺しつつ再び目を閉じて呪文を唱え始める。

 そうしたことを何度か繰り返し、何度も失敗に肩を落とす。

「いつも独りよがりな魔法しか使ってなかったから」

 きっと魔法の世界ではずっと一人きり、日常の世界でも同じだったのだろう。すぐには克服出来ない大きな壁がそこには聳えていた。

「ごめんなさい」

 奈々美の目は伏せられ気まずさを隠すことなく顔を逸らし。

 那雪にとっての心の支えである魔女、そんな彼女の悲しむ顔など見たくはなかった。

「大丈夫」

 伝える言葉はあまりにも不器用な発音。ぎこちなさはきっと中学に上がってからの生活で植え付けられたもので、ここまで弱り果てるのがあまりにも早過ぎることを嘆きたくなる気持ちを抑えて那雪は言葉を紡ぎ続ける。

「気持ちだけで嬉しいよ、ありがと」

 本心は素直に飛んで行ってくれた。きっと奈々美相手だから出来た事。身はこの程度でも心は傷だらけだった。

「何も出来なかったのに励ましてくれて……なゆきちは優しいのね」

 奈々美もまた那雪と同じく人々の輪に入ることが叶わなかっただけの一人の人間。気持ち一つで救われることを今ようやく知ったのだった。

「私は奈々美といられるだけで嬉しい」

 それから奈々美はすぐ近くの一階建ての平らな印象を与えるスーパーで買って来た消毒液を傷口にかけて零れたそれをポケットティッシュで拭き取る。

「沁みるの大丈夫かしら」

「大丈夫」

 絆創膏を貼り付けて一旦はそれで良いとして。気が付けば二人で一緒に居る神社に殆ど光が届かなくなっていた。影が辺りを包み込み、今日の終わりを運び込んではその時間の住民はささやかな声で鳴き始める。

「暗くなり始めたわ」

「子どもだけでこんな時間」

 見つかってしまえば補導されるだろうか。塾だと言えば通るだろうか。奈々美の姿を見て首を左右に振った。その姿では間違いなく怪しまれてしまうことだろう。

「帰ろっか」

「奈々美のおかげで凄く楽になった」

 そう告げていつも目にしているはずの歩道に小さじ一杯程度の不安を着けて引き摺り歩き始める。それ程までに不安はあったものの、街灯と会話のおかげか暗闇に沈み込まずに済んでいる。

 二人の空は、まだまだ明るみに充ちていた。

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