第3話 くろねことあるく夜
今日は特に予定も何もない、ただ一緒にいたくて呼ばれた事を喜びながらすぐに川に分断された公園の丸太の椅子に腰かける。石段にて蹲っていたあの少女、メガネと黒髪で顔を隠すように生きる彼女。顔立ちはどのようなものであれどもお天道様には堂々と顔を見せていて欲しい、そう思っていた時のことだった。
現れた少女は昨日までと変わったのか、前髪の右半分を後ろへと流し、額を見せていた。
「なゆきち、髪型変わったね」
奈々美の問いかけに対して一度大きく頷き、那雪は枯れ気味の声で答えてみせる。
「気付いたんだ、奈々美の真似」
奈々美の薄茶色のうねる髪が開けていたのは左半分、つまるところ反対側だった。対を成しているつもりなのだろうか、あまりにも愛おしくて仕方がない。
「ありがとう」
たったそれだけの言葉で顔を赤くして喜んでいた。そんな姿でさえ輝いて見えるのだから愛の力は偉大、そう教えられたような気がした。
「じゃあ、一緒に歩こっか」
周りに見せびらかして行きたい、奈々美の思考は既にそんな方向へと舵を切っていた。
☆
空は墨のような重たい黒に塗り潰されて、蒼は闇に溶けて見えなくなっていた。視界を覆う暗い世界は何処までも伸びて延びて。微かな涼しさだけが肌を撫でて来る。
そんな肌触りに違和感を覚えながら歩く女が一人。闇に紛れた美貌はきっと星と月と街灯の輝きだけでも十分に見て分かるだろう。この女が魔女だと言われて別の意味で納得してしまう人物が続出する様を容易に思い描けてしまう。
魔女の奈々美、彼女は闇の中、家を囲む灰色のザラザラとした心地の壁を見つめる。夜闇に紛れて見えなかったのは奈々美だけではない。どうやら姿すら見せる気のなかったそれが街灯の明かりにて形を描く。柔らかな闇色の毛に覆われた小さな生き物、狭いブロック塀の上でも四本の足を使って器用に歩く黒猫。
一緒に歩いているネコを傍目に奈々美は孤独を食べ続けていた。視界の寂しさなら星々が充たし、傍にはふわふわとした毛並みのネコがいて、一緒に可愛らしい様で歩き続けている。それでも揃っていない、不満。恐ろしいまでに何かが足りていなかった。
「たった二週間くらい、それだけのはずなのにね」
思わず言葉を零しながらネコを撫でる。たった一匹の野良ネコ、そんなネコも奈々美の心に共感したのか、寂しそうに弱った鳴き声を上げた。
「大人しい声、まるで」
名前を呼ぶことすら叶わなかった。それは声にしてしまえばきっと耐えられないから。
代わりに別の言葉を用意して済ませる。
「あなたにも会いたい子がいるのね」
ネコは答えることすらなく大きなあくびをして、毛繕いを始める。気ままに動くネコの仕草の一つ一つに対して可愛らしいと思いつつ眺めていたものの、やがて意識は夜空の方へと移って行った。
夜の闇に負けずに輝く星々、その輝きは美しくありつつも弱々しくて寂しくて儚くて。そんな星たちはあの少女のことをますます強く想わせる。メガネを掛けたあの少女、お世辞にも綺麗だとは言えない枯れ気味の弱々しい声。景色に混ぜてみても掠れたように見えてしまうあの子との思い出を見てしまう。
学校ではどうしても浮いてしまう魔女、毎週放映されているドラマの話も流行りのアイドルや服、旬の映画やグルメの話。何も分からなくて上手くなじむことの出来ない奈々美に向けて話す者はいつしかいなくなってしまった。
そんな彼女と向かい合って言葉をくれた人が現れたのはいつ以来だろう。思い返してもここ数年の記憶の中には殆ど見当たらなくて。
寂しさの鎖を優しい糸に変えてくれたあの子の名前を呼んでしまえばきっと耐えられない、今にも涙が零れ落ちてしまいそうで星に混ざる水晶になってしまいそうで。
「なゆきち、もっと会いたいよ」
それでも呼ばずにはいられなかった。
「もっと、たくさん話がしたいよ」
言葉にするとともに涙が頬を伝う。地上へと落ちて行ったにもかかわらず星空へと舞い上がるそれは温かで美しい。
「もっともっと思い出を一緒に」
控えめな風の音しか流れ着いて来ない大人しい闇景色、自然の赴くままに流れる空気の中に本音を織り込んで縫い付けて。
「大好きなの」
低く落ち着きながらいつもより澄んでいる声を遮るものなど何処にもなくて、どれ程遠い場所にでも届いてしまいそうな気がして。
――なゆきちのとこまで届けばいいのに
そう思う反面、那雪にだけはこんな弱音など届いて欲しくない。そんな想いもふつふつと湧いてきて。二つの想いは見事なまでに綺麗に重なり合って美しい音色を奏でている。
久々に同じ時間を噛み締めることが出来た人。そんな彼女の前だけでは強くあろうと決めていた。
「だから今は、なゆきちがいない今だけは」
弱気でいることを許して。その言葉を薄暗い小鳥に変えて夜空に飛ばして星を指でなぞり、那雪のあの顔を描く。愛しさは増していく一方だった。
目を地に戻したその時、既に黒猫の姿はなくて。
残された一人、孤独の寂しさを空の中に隠し、姿の痕跡すらの残さなかった。
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