第2話 箒

 那雪は日に照らされたみなもから目の輝きを授かる。川辺の石段にてしゃがみ込み、空から注がれる光が流れる水の表情に合わせて異なる煌めき方をしている。ガラスの断面を快晴の青空の下に置いたなら同じような質感の輝きを見せてくれるものだろうか。

 そんなガラスに押し込められた世界に細かで分厚い視線を注ぎ込む。小石は転がり葉やどこかから引き抜かれたと思しき草や木の破片は流され、川底に生える細長い草は精一杯しがみついている。小さな魚たちは太陽の輝きにて透き通る身体を必死にくねらせながら流れに逆らい時には川の想いのままに流されて。

 必死に留まるように泳ぎ続ける魚たちの姿がどこか自分の生き様と重なって見えた。

「みんな必死なんだ」

 那雪はそっと立ち上がり、細く白い腕に巻き付いているカフェオレのような色をしたベルトによってそこに留まる時計に目をやりメガネ越し、レンズを通じて映る世界を歩いて行く。待ち合わせの時間はもうすぐそこまで来ていた。

 白いシャツとくびれ辺りまでを覆う薄青いジーンズ。ハイウエストが個人的に似合うような気がして愛用していた。気分での指定が無ければいつもこの装い。世界を見つめるために動かす足を覆う紺色のスニーカーもまた、目立たないがために気に入りの品。中学生という親頼りの身で安く済んでいるのは親からすれば嬉しいことか物足りないことか。

 石段を上り切り、名前すら知らない雑草たちで彩られた豊かで柔らかな地を踏んで名前すら愛しいあの高校生との待ち合わせ場所へと向かって行く。

 足を止めた場所で待っていたのは黒い帽子にほぼ黒と言っても差し支えのないローブを纏っている女、自称魔女の東院奈々美。初めて出会ったその日は五月の連休が明けて一週間程度のものだっただろうか。今日はあの日の心の傷すら忘れてしまいそうなほどに澄んだ空をしていて空気は心地よい熱を包んで風は微かな音を何度も刻みながら流れて行った。

 風に掻き回された熱気は一週間程度前の苦しみの熱量には到底及ばず身を焦がされることもない。

 しかしながら奈々美の恰好は熱すぎるのではないだろうか。そんな心配を浮かべていたものの、肝心の奈々美は表情に曇りの一つも見せない完璧な笑顔を浮かべていた。

「こんにちは、なゆきち」

「奈々美、今日も会えて嬉しい」

 その言葉に偽りなど微塵も含まれていなかった。あまりにも明るいどん底に沈み込む那雪のことを言葉と優しさだけで救ってくれた彼女にまた会うことが出来て嬉しくて堪らなくて。

「私も嬉しいわ」

 言葉に添えるように浮かべ続ける笑顔があまりにも美しく感じられる。

 これまでの短くも長く感じられる期間の中で二人は三度時間を共にしていた。今日はどのような会話を繰り広げるのだろう。今日はどのような事を行うのだろう。考えるだけでも楽しくなってしまう自分がいた。

 奈々美の笑顔は姿を変えないまま色を塗り替える。そんな雰囲気を見て取る事が出来るのは那雪の感性の力だろうか。

「今日は一緒に飛ぼうと思っているの」

「飛ぶって……何、どうするの」

 奈々美の低く落ち着いた声は那雪の心を溶かしてつかみ取っていた。以前話を聞いただけなのにと言っていたものの、それだけでも那雪にとっては希望の光。それでもこれまで以上を求めるというのならば奈々美にとって今は物足りないのだということだろう。

 奈々美は箒を那雪に見せつけて口にする。

「これで飛ぶの」

 それは童話の世界の話なのだろうか。あまりにも現実離れした出来事の始まり。しかしながら奈々美の表情は本気のものだと訴えかけているようだった。

 奈々美は箒に跨り後ろに那雪を乗せる。

「しっかりと捕まっていて」

 告げられた通り、那雪は箒をしっかりとつかもうとした。

「違う、私にしがみついて」

 奈々美の言葉によって捕まる場所を間違えているのだと知らされた。

「なるほど、って、ええ」

 驚きは枯れ声でも上手く乗っかって流れて行く。つまるところ、奈々美をこれまで以上に傍に感じることが否応無く与えられたのだという。

 那雪がお腹に手を回してしっかりと抱き着いたことを確認して奈々美は飛行を開始する。

 地面から無理やり剥がれてしまおうとしているような妙な浮遊感から始まりやがて何一つ引っ掛かりのない完全な飛行へと変わる。そんな中、那雪は奈々美の温かみを全身で感じていた。

「二人乗りなんて初めてだけど、いいものね」

 奈々美の言葉に頷き届かない声を流す。那雪は二人乗りどころか飛行すら初めて、当然だったものの、どこか奈々美を遠く感じていた。ずっと先を行っているように思えてしまうのだ。

 風を切り、空を駆け、やがて山の上を飛ぶ。町の姿がミニチュアのよう。自分が住んでいる町である実感が湧かなかった。

「ほら見て、これが私が全然知らない世間、ちっぽけでしょ」

「奈々美は世間知らずなんだね」

 そうは思えない、しかしながら本当に知らない事なのだろう。

「でも、世間を知らない分、何かを知って来たんだよね」

 魔法とは言わない。那雪の言葉の中に詰められたものはただそれだけではないのだと奈々美はしっかりと気付いていた。

「どうかしら、世間を知ることから逃げて見つめてきたこの世界」

 訊ねながら那雪を見つめてみる。

 那雪の表情はこれまでに見せなかった純粋さを結晶にして、美しく飾り付けて。

「凄く綺麗、奈々美みたい」

「もう。やめてよ。惚れてしまうわ」

 惚れてしまってよ、ふと思いついた言葉は勢いを増して出てこようとしていたものの、胸の中にそっと仕舞っておくことにした。

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