魔女と私

焼魚圭

第1話 魔女と

 よく晴れた空、公園を二つに分けるように流れる浅い川、そんな川によって分断された公園の地を結び受ける橋は金属の部分は錆びつき木で出来た足場はカビや汚れに塗れていた。恐らく張り替えたものと思しき部分でさえも古臭さを隠し切れずにいた。この土地の歴史、幾つも巡って当然のように渡り去って行く日々を見つめ続けて年老いた橋は今日も表情を変えることなく歩き進み続ける日々を見つめていた。

 そんな人生の大先輩にも思える橋に繋げられた公園は花崗岩を思わせる質感の地面をしていて橋が架かっていないところには木の柵が立ち並んでいた。

 柵すら立てられていない部分から川へと下ることを許されたそこには岩を敷き詰めて作り上げられた石段が広がっていた。

 石段の一番下の段、今にも川の水がその手を着けて湿らせてしまおうとしているそこに一人の少女が蹲っていた。メガネ越し、分厚いレンズの助けを借りて見つめる世界の中で見つめる別の景色、川の流れと共に現れては消える追憶の像。その目が捉える鮮やかでありながらも朧気なそれは現実か幻像か。

 中学校に入学して以来ひたすら味わい続けている日々、その苦みに憎悪の情を味わい噛み締めて立ち尽くす自分。遂には自分自身の存在すら憎み始めていた。

 学校で受けるいじめの数々によって弱い心がひなたに晒し上げられて。

 新品の誇らしさを持っていた制服の白はいつの間にか教室の埃や人々の汚い心に染められ薄汚れていた。制服の胸ポケットに書かれた唐津那雪の文字も今では薄れてしまって。まるで自分の名前すら価値がないと言われている気分だった。

 やがて揺らめく憎悪の炎は川の水に掻き消され、流れに乗って時と共に生きる気力さえ失ってしまった。

 女のいじめは直接手を下さない、陰で笑い者にされるのが基本、そんな話を何処かで耳にして那雪は思う。

 現実は全てが傾向通りになってくれる程の利口者ではなかった。

 そうして日常に引きずり回された末に傷だらけの尽き果て寸前の魂が言葉を零す。

「もう……嫌」

 それは断末魔の叫びや助けを求める悲鳴とは似ても似つかない枯れかけの弱音。命の出涸らし。

 周りに味方など誰もいなかった。友だちだったはずの人も今となっては見知らぬ他人、教師は味方になるどころか那雪にも原因があるのではないだろうかと言葉を突きつけ親に至ってはやり返さないのが悪い、殴ってでも示し返せと言うだけ。果たして集まれば五人以上にも上る集団を力なき少女一人が立ち向かうことなど出来るものだろうか。

「生きてることが間違いだったんだ」

 枯れ気味の声で鳴らす弱々しい言葉はそよ風に乗る事すら叶わず雑草の合奏に掻き消される。

 乾ききって涙すら出てこない、そんな彼女には自然の一つですら痛いものだった。涙すら出てこない乾き切った身は沈み込む。絶望の荒波に溺れてしまいそうでどうしようもなくて。

 那雪の姿は影に充ちていたはずなのに、苦しみの暗がりにまで手を伸ばす声が届いて来た。

「どうしたの」

 後ろから聞こえて来た声に驚き振り返りながら立ち上がる。

「凄く、凄く、ツラそうだけど何かあったの」

 低く落ち着いた声は何故だか少し艶っぽく塗り立てられていた。黒いとんがり帽子に黒と見紛う程に暗い紺色のローブ、そんな怪しさ全開の装いをした女性は左手に箒を持っていた。

 分かりやすい魔女の恰好は絵本の世界の住民かと思ってしまう程。

 そんな魔女が薄茶色の髪と目を揺らしながら那雪の方へと右手と言葉を差し伸べる。

「私なんかで良かったら話だけでも聞かせて」

 那雪は目の前の光景を信じることが出来なかった。そんな出来事が現実で起こり得るのか。

「吐き出さないと、溜め込むだけじゃあ」

 魔法を使ったわけでもないはず、そのはずなのに那雪の心は動かされそうになっていく。

「……いつの日か壊れてしまうわ」

 その言葉を最後に那雪の心の壁は崩れ去ってしまったようで、ありとあらゆる過去から弱音に本心までもが滲み出て全て総て言葉に変えてしまった。

「ツラかったね、苦しかったね」

 ただただ話を聞いては包み込むように言葉をかけるだけ、それだけで魔法にかかったかのように動かす口が止まらなくなるものだから不思議で堪らなかった。

 やがて魔女は那雪のほっそりとした身体を抱き締めて優しく呟く。

「なにも出来なくてごめん、聞いてあげることしかできなくて」

「ありがとう」

 ただそれだけしか言えなかった。那雪は聞いてくれて一緒に居てくれるだけで充分だった。柔らかな温もりと優しさ、今ここにあるものこそが那雪にとって一番欲しかったものなのだから。

 どれだけの時をそうして過ごしたことだろう。気が付けば空は橙色に塗られていた。澄んだそれはまるでグラスに注がれたオレンジのサイダーのよう。

 救われた那雪の顔を見つめながら奈々美は懐中時計を取り出して蓋を開いた。

「そろそろこんな時間」

 きっとこの魔女にも様々な予定があることだろう。一人一人にそれぞれの人生があることを分からないわけではなかった。

「ごめんなさいね、高校生の魔女も少しだけ忙しいものだから」

 言葉を残して立ち去ろうとした魔女に向けて那雪は訊ねた。

「ええと、名前はなんて言うんですか、私は……唐津那雪と言います」

 大人ですら救うことを放棄した弱い人間の支えになってくれた魔女、そんな優しい高校生の名前をどうしても知りたかった。

「私は東院奈々美。この極東の地で〈東の魔女〉なんて呼ばれているわ」

 帽子に巻かれた黒いリボンの留め具なのか、三角形の中に三角形、更にその中に三角形と幾つも奥へ奥へと連ねられた螺旋階段を思わせるデザインの銀色が輝いていた。

 帽子の下には左に流した薄茶色の髪が少しうねっていて、右側から覗く白く広く可愛らしいおでこ、その端には耳を通り抜けて肩に垂れたうねる髪、顔に収まる瞳は大人の冷たさを滲ませながら奥に優しさを秘めたガラス玉。

 鼻も口も肩まで伸びた後ろ髪も何もかもが柔らかな印象を与えてくれる。ローブに包まれた身体もきっと柔らかでありながら整っていることだろう。どこを取っても何処までも貧相な那雪とは正反対に見えた。

 奈々美は手を振りながら血色の良い潤った唇を動かして誓いを立てた。愛しい約束の言葉を美しい声に乗せて結び付ける。

「また明日ね……なゆきち」

 そんな言葉を奏でる奈々美の目は何故だか何処か寂しそうに見えた。

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