第7話 コーヒー

 いつも通りの日々の中、それは突然訪れる。突然と言えば何もかもが突然起こることではあるのだが、奈々美の好みを知ることはあまりにも急な話であった。

「私、コーヒーが大好きなの」

 それはきっと彼女の勇気が会話に追いついた瞬間だった。

「そのまま飲むの」

 那雪の問い。それは未だに夜空を知らない晴れ晴れとした空の色によく似合った若々しさをしていた。問いかけを放り込む枯れ気味の声は力なく、ただ奈々美に伝えるには充分すぎるもので。

「そう。コーヒーによって色々と味があって楽しいものよ」

 奈々美の言葉に乗せてもらって行く先はどこだろう。ただ導かれるままに進み行く。

「今日は両親共にいないから」

 そう告げて案内を進める。そんな背中が那雪よりもずっと大きく見えた。あまりにも薄っぺらで貧相にも見える那雪と違った厚みも手伝ってなのかも知れない。しかし、那雪が感じたことはそう言ったことではない。

 人生を歩んできた時間や厚みの差、それを感じざるを得なかった。

 那雪の通学路を外れて左へと、大きな車道が伸びる道を歩き続ける。それから三分は経ただろうか。歩道の幅が半分程度に抑えられマンションや一軒家が建ち並ぶそこ、一見するとごくごく普通の一軒家。そこが奈々美の家だった。思ったよりも近くて驚きを湧き上がる明るい気持ちと共に握りしめる。

 実際のところ、那雪の同級生が住んでいてもおかしくはない地域、校区の範囲内。しかしながら那雪にとっては未知に充ちた道。奈々美はその家のドアを開いて招き入れる。

「お母さんが魔法使い以外は嫌ってるから普段は上げられなくてごめん」

 それでも構わなかった。今の那雪は奈々美の知っていることを見つめることの嬉しさに浸っていた。このままずっと奈々美と一緒にいたくて、奈々美と同じになりたくて。

「じゃあ今からコーヒーを淹れましょう」

 魔女の手は空気を指すように人差し指だけが伸ばされ目の高さにまで上げられた。そこからどこへと動いて行くのだろう。那雪の目も同じように動いていた。そんな状況に不思議を感じながら、魔女としての奈々美の本質を感じながら、食器棚のガラスの戸が開かれる様を黙って見つめていた。もはや奈々美との関係とでも言える術に嵌まってしまっていた。

 開かれた小さな戸、高い所から出て来たビーカーを思わせるガラスの容器と白いプラスチック製の台形が柔らかでしっとりとした指につままれて出て来た。下の段からは白くて艶のかかったカップが二つ、姿を現した。

「いいかしら、よく見てよく香って」

 そんな言葉と茶色の濾紙のような物、那雪はそれだけでも異邦の地に立っているようにすら感じていた。

 辺りに飾られているのは小さなガラスの亀や鶴のような生き物、鹿のはく製や迫力の圧だけで迫り来る龍を木の枠に収めた絵画。

 この部屋には飾りの釣り合いと言うものがないのだろうか。

「色々飾られてるでしょう、全部親の魔法使いとしての人生で集めたもので」

 つまるところ、奈々美の心は飾りの中には無いということだった。

 奈々美はコーヒーミルを取り出して黒々とした粒を入れ始める。豆を入れて閉じた蓋、回されるレバー、広がってくる香りの成熟した様は那雪にはまだ早いのではないだろうか。

 どうにも近寄りがたい雰囲気が漂っていた。

 奈々美の気品ある動作と魔女のローブは雰囲気を彩る。整えられた様に目を向けて、那雪は今と言う特別製の時間の中にのめり込んで行った。

 やがて香りに充ちた部屋。その中で砕かれた粉を上品な仕草で濾紙のような物を敷いた台形のドリッパーの中へと移していつの間に沸かしたのだろうか、熱湯を注ぎ込んだ。

「お湯の温度は八十五度がちょうどいいそう」

 低すぎればあまり味が染み出ないという。と言って温度を上げ過ぎれば雑味までもが顔を出してしまうそう。

「繊細さんなの、まるでなゆきちみたい」

 大人な雰囲気だったものがあまりにも身近に感じられた。それこそが奈々美の魔法なのだろうか、そう錯覚するには充分すぎた。

 水が粉を通り、一滴ずつ落ちていく。茶色に染まり、香ばしさに溢れた姿で一滴とは思えない姿で繋がりを持って。ビーカーの中に落ちる液体たちは科学実験の流れを取って。

 やがて溜まったコーヒーを眺めて奈々美は微笑みカップへと注いでいく。

 出来上がったコーヒーを那雪はしばらく見つめていた。その隣では奈々美が当然のように啜っている。

「美味しいよ」

 カップの内側を彩る微かに茶色がかった黒を眺めて数秒経っただろうか。恐る恐る口へと運んで行く。

 口の中に広がる微かな苦味と落ち着きをもたらす香りにほんの少しぬめりを持つ舌触り。それを纏め上げるスッキリとした味わいは那雪の言葉をすぐさま引き出した。

「美味しい」

「そうでしょう」

 このような美味、那雪の知らなかった新しい世界への扉が開かれた気がした。

「奈々美っていつも飲んでるの」

「ええ、毎朝」

 それはどれ程優雅なものだろう。羨ましく思えて仕方がなかった。

「コーヒーも豆の産地や育て方によって全然変わって来るの」


 それはまさに人間と同じ、そう改めて実感させられた。

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