第34話 冬のコーヒー

 奈々美と二人のランニングや運動を終えてから流れるように奈々美の家へと向かう。

 話によれば一月が終わりを迎える辺りまで帰って来ないのだという。電話で告げられた事実に奈々美はどのような反応を浮かべた事だろう。

 分からないながらにも那雪の中に渦巻く思いがあった。

「なんだろうね、返って来るの遅い」

 正直な言葉は奈々美をしっかりと笑顔にした。そんな笑顔一つでくっきりとした安心に染め上げられるものだから人間の心とは不思議な物だった。

 奈々美の家に上がり窓の外から眺める雪景色は美しい。穢れ一つ無い純白とはこのことを指すのだと思い知らされた瞬間、奈々美は那雪の手を握り締めてそのまま身を乗り出すように顔を寄せる。

「近いよ」

 那雪の言葉に構うことなく近付いたまま、奈々美はそのまま美しさに彩られた口を開く。

「なゆきちの近くがいいんだもの」

 思ったよりもドキドキしない自分が憎たらしくあった。

 更に近づいて、もう少し、もっと、止まらないように、近付いて。

 やがて柔らかな唇が薄っぺらな唇に触れる。


 日頃から一般的な恋愛を思わせるような行為から遠いところにいた二人の中ではたったそれだけの事が特別な意味を持つという事。

 那雪は気が付いていなかった。

「そうだわ、コーヒーにしましょ」

 突然切り替わった方向性に戸惑いながらもそこがいつも通りの流れなのだと遅れて気が付いた。

 奈々美はケトルでお湯を沸かし始めた。

 ビーカーを思わせるガラスの容器に三角のプラスチックの容器を置いて濾紙のような物を敷く。これだけで那雪は見覚えのある光景だと自覚を持った。以前はあまりしっかりと味わうことの出来なかったコーヒー。豆を挽く音と共に上がる香りがあまりにも美しく、那雪の底の何かを波立てるような揺れが伝わって来る。

「どう、懐かしいでしょ」

 それから粉々になった豆を濾紙のようなフィルターの中に入れて、少しだけ湯を注いで豆を蒸らす。その時に出た湯は捨ててしまうのだから勿体ないと思いつつも美味しくいただくための努力なのだと分かっていたが為に何も言うことはない。

「いい香り」

 ついつい言葉にしていた。そんな様を見つめて奈々美は目を輝かせて那雪の方を見つめながらコーヒーを淹れて行く。

 ガラスに溜まる液体は黒々としていて少し焦げ付いた豆の香りがあまりにも気高い。

 溜まった液体を二つのカップに注ぐ。

 ピンクの花と青みがかった優しい緑の茎や葉が描かれ花冠のように上のふち付近を彩った控えめなものと青いバラがしっかりと身体に描かれた派手な物。

 那雪は控えめな柄が描かれた白いカップを手に取る。奈々美は笑顔を柔らかに崩しながら口にした。

「多分こういうのが好きだと思っていたわ」

 想像通りだったのだろう。奈々美が自分の事を理解してくれている。そのことが嬉しくて、想いと共にカップの中身を揺らしつつ口を付ける。

 コーヒーを口にした途端に広がる香りはあまりにも美しくて気高い。閉じ込められた苦味は昔以上の重々しさを感じさせたものの、美味が解き放たれて那雪を包み始める。

「美味しい」

「でしょ」

 こぼれ出た感想は意識したものではなく、あまりにも正直で拙いものだった。コーヒーの波に飲み込まれてしまいそう、美味の風が身体を満たし、落ち着きを与えてくれる。

 外の寒々しい景色から切り離された温もりの中、雪景色があまりにも美しく見えてしまう。

「外も綺麗に見えて来るよ」

「そうね、見てる分にはね」

 あくまでも歩かなければ余裕をもって見つめることが出来るのだという事。外に足を踏み出してしまえば過酷な光景と出会ってしまう。どうしようもない自然現象。人の手では対策さえ叶わないそれはあまりにも力強くありながらも美しさや儚さを思わせるのだから不思議なものだった。

 これからどのように景色は過ぎ去って行くことだろう。雪の下では次の景色の準備が進められているものだろうか、そんなありもしないことを思いつつ頬を緩ませる。

 奈々美は頬杖をついて景色を眺めながら窓の枠の中は額縁のようと呟いていた。

 那雪には衝撃だった。奈々美は空と言い窓といい、絵画に結び付けたような空想が多く見受けられた。那雪にとっては一つ一つが写真のようなものだと思っていた。

 この距離感だけは上手く言葉に落とし込むことが出来そうにもない。二人の違いと言うものがそこにあった。

「奈々美は幻想が強いんだね」

 自分なりに感覚を声にしてみたものの、どうにもちょうど当てはまるものにも思えない。

「私には写真に思えた」

 日々の全てが思い出というアルバムに収められる写真だという印象だった。

「なゆきちは現実、かしら」

 それはあくまでも考え方や感じ方。

 在り方とは異なるもので、魔法に触れる日々という幻想に充ちた現実は姿を変えることはない。この程度の考え方の違いなど些細なもので、笑顔で分かち合えばそれで御仕舞いだった。

 コーヒーを飲み終え、時計の針が音を立てながら進む姿との組み合わせを目に焼き付けて那雪は立ち上がる。

「そろそろ帰るね」

「また今度」

 そうしてこの日の楽しみもまた、大切な写真たちとして記憶のアルバムに閉じ込められた。

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