第33話 正月太り
昨日の雪だるまを思い出しながら那雪は歩いて行く。今日の待ち合わせ場所はいつもの公園。あの雪だるまは無事なのだろうか、うさぎは姿を保っていられるだろうか。昨日は降っていた雪が嘘のように空から姿を消して白銀とは言い難い地面が広がるだけ。その世界には美しさなど残されているだろうか。昨日の雪だるまたちは雪に打たれて姿を変えているかも知れない。雪を被って右腕まで下げてしまっているかも知れなかった。
大きなため息をつきながら目の前の景色を眺める。石の階段は白い化粧でおめかしをしていた。草は首を垂れて川に顔を付けていた。冷たい水の鏡の表面には氷が張る事もなく、ただこの場所を流れ続けるだけ。変わらない姿に安心を得て眺め続けていた。川の水が映す町並みや空はこの世界とどこか異なるような気がして憧れてしまう。その情に那雪の身は焦がれてしまう。
時間はどのように過ごしても同じように過ぎ去ってしまう、時の流れが異なるように感じられる人々を羨みつつも上手く夢中になれることを見つけることが出来なかった。
那雪の傍に奈々美はやがて訪れる。彼女が開く口はいつでも那雪の意識を引き付けてしまう。
「今日は走ろうかしら」
彼女が開く心はいつでも那雪の意識を惹き付けてしまう。
「急にどうしたの」
訊ねられて返って来るのは必要以上に勢い付いた言葉だった。
「私、なゆきちに出会ってから幸せ太りして来たんだけど」
「うん」
「この正月で凄くてね、なゆきちの前では可愛くいたいの」
早口で述べられる言葉は思いの他強烈だったものの、那雪としてはいつでも奈々美は可愛いと思っていただけに最後の言葉の味が分からなかった。
「奈々美はふっくらしてもかわいいよ」
しかし、そのような言葉は彼女には通じてくれない。奈々美の中では痩せている事が美しさの絶対だと思っているようだった。
「優しいのね、でも今はそうじゃない」
丸々とした頬、那雪と比べて厚い顔なため少しは肉付きが良い方が似合いそうなものだとは言えなくて。
「とにかく走るわ、私の好きな身体を目指して」
きっと那雪のような体型を目指そうとしているのだろう。しかし、それは不健康の証だった。痩せているというよりやつれている方に近いとも言えるかも知れない。
そんな姿を目指して欲しくはない、それが正直な感想だったものの奈々美には満足してもらうという方向で那雪は想いを進めていた。
「頑張って」
それだけで充分なのだろうか、準備運動も無しに駆け始めた。那雪は慌ててついて行く。
彼女の速さに合わせることが難しくて、細いだけの脚には筋肉がついていない事を思い知らされて。強い運動不足を那雪は感じていた。
「なゆきちもっと」
生きるために必要な筋力をつけるための運動だと思って同じように動く。
一時間近く走っただろうか。続いてはスクワットや本来ならばラジオの音楽に合わせて行なわれる運動を経て、奈々美は大きく息を吐く。那雪は節々の痛みを感じていた。
「私、弱いね」
那雪の言葉に奈々美は顔を上げた。
「なゆきちは運動不足なのね」
全くもってその通りで言葉も出ない。
「私は痩せるからなゆきちは筋肉つけて」
それぞれに与えられた課題、二人異なる問題があったがどちらも共に運動不足が原因である事実は否定できない。
「そうね、疲れたし何か食べて」
「太るよ」
途端に奈々美の顔は強張る。那雪の指摘一つで気を引き締めて向かい合う。
「ええ、そうだったわ」
きっと彼女の習慣だったのだろう。きっと那雪との思い出の為に軽食の回数が増えてその度に肉付きが立派になって行ったことだろう。
「ごめんなさい、綺麗になるって言ったばかりなのに」
本気なのだろう。表情の熱は運動で溜め込んだだけのものではないだろう。
那雪は自分のみすぼらしい身を変えようと心に誓った。
「細くてもいいけどもうちょっと力付けようかな」
途端に奈々美の笑顔が咲いた。季節外れの夏の花を思わせる煌びやかな笑みは那雪の肌の色からは現れない鮮やかさで。
気が付けば見惚れながら薄汚れた感情を抱いてしまっていた。
奈々美にはどのような景色が映っていることだろう。達成感に鮮やかな色彩を乗せて視界に広げるか、疲れと食欲に身を委ねて溺れるように立ち尽くしているのか。
気を抜けばどこを見ているのかそれすら分からない目をしている。
「疲れてるね」
走った後なら間違いないこと。他の運動を挟んでもきっとそう。寒さは体を震わせて、それすら体力を奪っているように思えてしまう。
「なゆきちこそ」
肩で息をする姿、膝に手を着いている姿。ここ最近で最大の疲れだった。
「もうちょっと走ろうかしら」
次の日からの筋力トレーニングのメニューを定めて奈々美は再び走り出した。疲れた身体で見つめるいつも通りの景色は何故だかいつもと異なるように感じてしまう。どこか淡いようで輝いているようで、目にするだけでどこかから明るい気持ちが湧いて来る。
その日、那雪は青春の中に生きているのだとようやく意識した。
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