第22話 空のキャンバス

 空とは見上げるもの。手が届かない高さの末の景色、少し高い塔や恐ろしいまでの時間歩き続けた山からでさえ届くことのない景色。

 そんな景色をいつの日か身近に感じるような事があった。果たしてそれが良い事なのかあまり良くない事なのか。

 那雪はメガネ越しの視界、ガラスのフィルターがかかってしまった景色を見つめる。そこに待ち構える景色は本物だったはず。決して作り物などではなく。

 しかしながらどうにも空気とのふれあいの感触が異なるように感じていた。きっと目がよくなったその時が本当の景色を拝む瞬間。そのような瞬間は永遠に訪れないという事を知ってしまった今となっては諦めを抱いてしまう話。魔女である奈々美の力を借りても治すことは出来ないのだと知って、メガネのない世界を堪能することは諦めた。今となってはお世辞でさえも綺麗といった言葉を並べることをためらってしまうような顔をごまかす道具としての活躍にも期待していた。

 そんなことを考えていて気が付かなかった。いつの間にか隣には百合の花を咲かせる美人が立っていたのだということに。

「そうね、今日は空飛ぼうかしらと思ったけど」

 奈々美の言葉はしっかりと届いていた。低く落ち着いた声はいつでも那雪の心を奪い去ってしまう。

「何もないけど寒い日なんて私たちを歓迎してくれないもの」

 気候の気まぐれに踊らされる人生。今空へと向かってしまえば間違いなく厚着でも十分に風邪を歓迎してしまうことだろう。

「どうかしら、一緒に空に想いを描いてみよう」

 空とは見上げるもの、奈々美に出会ってからその印象は見事に崩れ去っていた。空を泳ぐようにすいすいと進むことも出来る、そうだと知ってからというもの、奈々美がいる時だけはその情報を、感性を加えて眺める。

 その想いに更に新しいイメージを加えようというのだ。楽しみで仕方がなかった。

「夜空の星を線で結んで絵描きなんて経験ないかしら」

 全くもってなかった。星々は綺麗なもので、やはり人の手ではどれだけ伸ばしても届かないという印象を抱いていた。

 しかし、奈々美はそんな印象を一気に切り崩す。星空だけでなく、青い晴れ空でさえも画用紙として扱ってみせるそう。

 奈々美は指を伸ばし手を掲げる。

「光で描くような感じで」

 そんな言葉をどこまで真に受けていいのだろうか。少なくとも那雪の記憶では描いた線の一つすら書いている途中で忘れてしまいそうだった。

 奈々美は指を動かす。

 それは如何なる属性の魔法だろう。薄く広がる青空にキラキラと星くずを束ねたような線が引かれ始める。この瞬間から目を離すことが出来ない那雪。

 輝きの粒が舞いながら線を描き、模様となって行く。

「何描いてるかよかったら当ててみて」

 言葉を発している間にも線は伸び続け、やがてかつて奈々美が引いた線にも重なりながら曲がり始める。

 それから更に伸びて幾つもの複雑な模様が出来上がり、やがてそれは那雪にとって馴染みのある姿を作り上げる。

 結ばれた線が示したものは那雪が最も愛する花だった。

「アジサイ」

「そうだよ」

 広がる青い空と流れる白い雲、それらが上手く重なりアジサイの姿は立体感を得る。その時一瞬を切り取り次の一瞬を切り取り。全く異なる見映えの青空模様のアジサイたちはまさに一期一会、色を変えるそれにどことなく似ていた。

「綺麗だね」

「かわいいでしょ、なゆきちみたい」

 そんな言葉を突然受けて那雪は首を左右に振る。

「私可愛くない」

「私の目には凄く可愛く映るけど」

 世間の道からどれ程逸れているのだろうか。美醜だけであればともかく、これ以上大幅に外れてしまっては基本的な会話すら通じなくなってしまうかも知れない。それでもこれ以上は語ることもなく、ただありがたく受け入れるのみ。

「他にもこんなのも描けるわ」

 そう述べて光を再び現わす。そんな光で表すものはどのようなものだろう。那雪は心を弾ませながら見つめ続けていた。

「空を彩ってね、こんな感じ」

 光が描くものは確実に完成へと続いて行く。

 那雪が見たもの、それは愛する人の指先で描かれた猫だった。

「かわいい」

「やっぱりネコ好きでしょ」

 那雪としては猫は確かに好きだったものの、もっと好きな動物がいた。

「リスは描けるの」

 奈々美は微笑んで指を動かし始める。

「任せて」

 これはただの楽しみでしかない。普通の娯楽。魔法と言う非日常への触れ方があまりにも凡俗でついつい笑ってしまう。

「ここをこう結んで」

 描かれる過程を見つめては応援を送る。那雪にとっての画伯はここにいた。

「横向きしか描けないけど許して」

 那雪は頷き見守り続ける。リスの絵は横向きの方が描きやすいことは那雪の目にも明らか。それだけでなく、可愛く見えるのも横向きだった。

 やがて描き終えたようで奈々美は手を降ろす。空に広がるそれはドングリを持ったリス。膨れ上がった尻尾は柔らかで、那雪の目をすぐにでも癒しで充たしてしまう。

「ありがと」

 礼を述べるその顔は星のような輝きで充ちている。

 那雪が己の星々で描く表情は優しく眩しい笑顔の魔法だった。

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