第31話 奈々美のいない朝

 ついにこの日が来てしまったのだ。那雪を迎えた朝はいつもと何一つ変わりなくてそんな残酷な様を目に入れて。

 ごく普通、ありふれた沈んだ色の空には雲が散りばめられていて無表情で太陽の輝きが優しく降り注ぐ。

 親が用意した朝ごはんを簡単に済ませ、制服に着替えて鞄を背負う。この服を身に着ける事や学生鞄の紐を肩に掛ける事はいつ以来の出来事だろう。去年と言う数字で区切られた向こう側の日々だったように記憶していた。

 そう、結局のところ学校という場所に寄るための許可証としか捉えられないでいる自分がいた。

 もう少し大きくなるだろうから、女の子は肉付きが良くなるだろうからと親が大きめのサイズを選んだ制服は入学当初と何一つ変わりがないように感じられた。身体に何一つ変化が現れた実感が無い。身長は少しだけ伸びたのだろうか、百六十の数字を拝むこともないまま。

 そんな身の丈に合っていない恰好で彷徨っている姿はあまりにも惨めで、学校に用が無い時にはいつも私服を身に着けていた。

 寒空の下、カシミヤのマフラーに頼ることなく家の向こう側を歩くのは久々ではないだろうか。

 乾いた空に乾いた心。恵みの湿りを与えてくれる彼女は今、隣にいない。

 道路脇に流れる川を見つめる。この川の流れに乗って時間を遡れば奈々美と出会った時間にまで戻ることが出来るだろうか。奈々美と出会った場所には確実にたどり着く事であろう。川のように流れ去った日々を見つめる。

 かつては日曜日が終わって月曜日を迎える瞬間が憂鬱だと語る人物に同意していたものの、今となっては特に気にすることはない。毎日が午後へ、奈々美と顔を合わせることの出来る時間を迎える事が楽しみで仕方がなかった。

 つまり、日にちを跨ぐことへの苦しみが分からなくなっていた。

 白い壁に瓦が被せられ、そんな歴史を感じるものに挟まれた狭い道を歩く。車二台は通ることが出来ないだろう。もしも道路がしっかりと整備されていれば車に限っては一方通行の道と成るかも知れない。この道の真ん中で立ち止まる生徒は迷惑で堪らなかった。横並びで進み、動く行き止まりとなっている女子は邪魔でしかなかった。必要以上の人数で歩く男子もまた、妨げになるだけ。大人は通学路であるこの道を睨み付けていた。

 立派な日本家屋のようなお堅い壁や木の扉を通り過ぎて視界に広がるのは幾つもの畑。道を選べばこの十年程で畑の面影を失った道など幾つも見受けられるものの、この場所は未だに手を着けられていない。この道で犬の散歩をしている老人は那雪を見つめて顔に皺を寄せる。渋い貌をしながら顔を背け、わざとらしく犬を撫で始めた。

 見た目の良い女以外には冷たい人物もこの世界には多勢いる。幼い精神性だと思いつつも現実は現実だと認める他なくて、少し心苦しいだろうか。

 外見一つ、恰好一つで扱いまでをあからさまに変える人物を通り過ぎ、身体を包み込む大きな制服を見つめてため息を吐いた。この制服を着こなす人物は大量にいるだろう。紺色のブレザーも濃い灰色のスカートも、那雪には重々しい印象を抱かせてしまう。本人の白い肌よりも制服が主役を飾り、堅く纏まっていた。

 田畑の並ぶ道には土が少しずつ被り、車のタイヤにとっては最悪の触り心地をしていることだろう。

 坂を上りながら右を振り向く。道路や農業用に使われる土地から切り離されるようにひっそりとたたずむ土地があった。そこに車を止めて降り立つ男たちはこれから仕事なのだろうか、それとも仕事を乗り切って休日を迎えた者なのだろうか。楽しそうに笑いながら言葉を交わし合う彼らを羨ましく思いながら自分のペースで、女の子の中では早い方の足取りで歩いて行く。隣に奈々美がいない、それがこれほど虚しいことなのかと久々の登校で思い知らされた。坂を上り切り、少しだけ下る。そこから信号のない横断歩道を渡ることで学校の敷地に踏み込むという。慣れた道ではあったものの、通勤の車も数多く通るこの場所に信号機の一つもない事に未だに疑問を抱いてしまうのだ。

 学校帰りの生徒でも狙っているのか幾つか並んだ自動販売機が見守っているようにすら思えてしまう。

 黄色の旗を持った二人の男がそれぞれに旗を伸ばして道を作る。

 通りざまに会釈を見せながら渡る。

 渡り終えてからが本番という人もいるだろう。そこに待ち構えるのは急激な坂。運動部の者たちが下っては上り、体力をつけるために懸命に走るそこは活気に溢れていた。

 そんな坂を軽々とした足取りで歩いて行く。小刻みであれど急ぎ足であれど、走って上る方が苦しい坂はまさに基礎体力を増やす為に使うには最適。これもある種の地の利と言うものだろうか。

 生徒数の多いこの学校。恐らく人数がそこそこ程度の小学校三校の生徒を集めたが為のものだろう。総人数が千を超えるその場所で全員の顔を覚えるのは骨が折れるだろう。生徒に至っては一度たりとも姿を見ない人すら現れるかも知れない。

 そんな人の波の中へと紛れ込み、今日は午前で終わるという事実に、授業の無い日という予定に対して、肩の力を抜いて向き合うべく溶け込み大勢の中の一人と成った。

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