第25話 ハンドクリーム

 寒さが本気を出していた。肌に入るヒビが脈を成し、今にも赤い川が流れてしまいそう。今ではそんな寒さも一人で耐えるわけではない。少しの痛みであれば平気だと言い聞かせる。

 カシミヤのマフラーに手を当て優しい温もりの思い出を得ながら待ち続けた十分程度。それを経ていつものように魔女はやって来た。殆ど毎度那雪が待つ形になるのはきっと授業からの帰宅に着替えと言った習慣から来るものだろう。隣にいる奈々美。彼女が春の終わりか夏の始まりか、そんな時期に話しかけてくれなければ今ごろ一人凍え切っていた自分がいただろう。などと言う以前にこの世で未だに命を燃やし続けていただろうか、そこから考え始めることとなっていた。

 メガネのレンズでは隠し切れない程にくっきりとしている浮かない顔を浮かべてしまっていた。そんな様子を当然のように見つけて言葉をかけて来るものだった。

「大丈夫かしら、なゆきち」

「大丈夫」

 単純な答えでは満足しないものだろうか、奈々美は更に深い感情の源泉へと追及を進める。

「答えてみせて、遠慮はいらないわ」

 果たして本当にそうだろうか。根元を折るような妄想、現状の始まりから逸れたような恐ろしい想像だった。

「今は特に悩んでないんだけど」

 魔女の浮世離れした口調は出て来なかった。昔の本やドラマで学んで人と話さなかった結果なのだろうか。そんな生き様が見えてくる作り物めいた言葉での本心からの返しを求めて言葉を紡ぐ。

「もしも私たちが出会ってなかったら」

 あれは偶然がいたずらを起こした結果に過ぎなかった。神は救世主でも何でもなく、ただ人を無差別に置いて眺めている事しか出来ないものだから。

「この乾いた手のようにひび割れて今頃」

 那雪が差し出した手のヒビを見つめて奈々美はそっと柔らかな手で包み込む。

「そうね、きっと私も一緒に見知らぬところで倒れていると思うわ」

 冷たい手にも温もりはあって、柔らかな手には確かな優しさがあった。

 奈々美は手を放し、ローブの中に手を突っ込んで何かを探っていた。冷たい空気の中で鳥が囀る。彼らもまた何かを求めているものだろうか。

 凍り付いてしまいそうな川の音と心にまで這って来る乾燥に塗れた世界の中で奈々美は何を取り出すのだろう。ローブの中から現れたそれは見覚えのあるものだった。

「ハンドクリームだね」

「これを塗ってなゆきちの綺麗な手を傷つける乾燥から身を守るの」

 如何に大切に想われていることだろうか、ひしひしと感じさせられる。クリームを塗り付けるその手は慈愛に満ちて、温もりと潤いを染み込ませ、生きた心地を与えてくれる。白い吐息が舞う。いつも同じ姿を取り続ける景色の姿が変わり始める。厳しい寒さや乾いた空気は外と言う世界の中に閉じ込められて行く。

「塗り込んで、そうそう」

 ぬめりの塊のようなそれは慣れない感触を伴っていたものの、少しずつ肌に馴染んで行くことで違和感は薄れていく。まるで染み込む恵みの水のよう。保たれない肌の温もり、気温に合わせて移り変わる那雪の手の温度に合わせて冷たい感触が一体となって、しかしながら風が吹けば冷たさは増していく。

「一つ気になったんだけど奈々美」

「なにかあったかしら」

 那雪にはどうしても気になっていることがあった。

「保湿の薬とかって魔女は作ってないの」

「作ってないの」

 返された言葉、奏でる響きには嘘の揺らぎが含まれているように思えた。波打つ響きに首を傾げていると奈々美は訂正を含みながら声にしていった。

「私は作ってないの、火が使えないから」

 それだけの理由だったのかと肩の力を抜いた那雪。やはりそういった想像の世界は実在するのだと感想だけを抱いて仕舞い込もうとしたその時、奈々美は保湿の薬の事情を語り出す。

「色々と草を煮たり混ぜて練って作るんだけど店で出回るのより高いから消えそうな技術ね」

 つまるところ、化学の方が便利だということ。この分野の魔法はもしかすると知識を感覚的に理解しながら扱われる化学と言っても差し支えないかも知れない。だとするとやはり今の科学に取って代わるのなら消滅する技術なのかも知れない。

「細々と洒落たものとして買う人もいるけどあんまり振るわないし、便利と安価こそ正義ね」

 そんな時代の流れの中でも忘れてはならない、そんな事を那雪は告げる。

「でも、魔法の一つの分野の基本だから忘れちゃダメだよね」

 那雪の目を見つめる奈々美に向けて、心の行き場を失い口を噤む奈々美に対して那雪は言葉を紡ぐ。

「基本は大切だよ、心も同じ、私たちの出会いを忘れたら、心の根の音を忘れたら」

 奈々美は微笑む。草すら枯れて力を失うこの季節に丈夫な草のような感情を張り巡らせて潤いを咲かせて。

「なゆきちは優しいのね」

「誰も目を向けてくれなかったから、その時凄く悲しかったから」

 ただそれだけの事、分かる理由など陰を知っているからという単純なもの。太陽すら弱ってしまう渇きの中でも二人の気持ちは重なることでいつでも水を得られた。

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