第9話 メガネ越し

 森はざわめき風は踊る、鳥は揺れ髪は揺れ、服をはためかせて頬を撫でる。風の姿を捉えることは不可能なのだろう、少なくとも那雪には不可能なようで。ごくごく普通の人物には成しえない事を目の悪い那雪にこなすことが出来るとは思えなかった。

 風はずっと吹いている。同一の意識なのか別の人物なのか、見分けることが出来ればどれだけ楽しいことだろう。

「奈々美ならできるかな」

 愛しくて常に会いたくて、ついついその名を口にしてしまう。学校の中で呼んでしまったその時にはクラスメイトのイジメのエサとなってしまうだけ。

 学校で抑えている分今ここでの奈々美の想像が膨らんでいく。

 態度は表情にまで、感情の温度の差にまで出てしまうものだろうか。

「なゆきちちょっと顔赤いんじゃない」

 見つかった、最も見られたくない表情を見られてしまった。

「そんなに私と会うの楽しみだったのかしら」

 きっとあらぬ想像をしながら意地悪な感情で声を掛けたことだろう。那雪の口はそれ以上に正直だった。

「楽しみだったんだ」

 打ち明けてしまう。嬉々とした言葉はいつになく明るくて。きっとあまりにも分かりやすかったのだろう。思わず右腕をドキドキと内側で騒ぎ立てる薄い胸に当てて顔を下に向ける。

「私たちって付き合ってたかしら」

 恋人同士のような反応だったそう、那雪には分からないものの、奈々美という四年先の人生を行く女がそう語るのだ。

 自分等より余程那雪のことを理解していた。

「そっか、私、奈々美をそんな目で見てたんだ」

 いつになく弱った言葉は那雪自身の嫌悪のようなもの。恩人で特別な人、いつでも優しくて一緒に居れば常に見てくれているような人物。恋などという安っぽい関係を取りつけたくはなかった。

「そうそう、いいよね」

 奈々美は嬉しそうで、何故だろうと疑問を浮かべてしまう。それが自然と言葉になって気が付けば奈々美を射貫いていた。

「奈々美は恋、してるの」

 奈々美の表情からとろけるような甘みが滲み出る。美しい表情が一気に俗っぽさを纏った、そんな気がした。

「なゆきちのこと、大好きだわ」

 もはや止めようもない、那雪のことをしっかりと把握してくれている理由が分かった気がした。

「私のこと、ちゃんと見えてるんだね」

 メガネすら必要としないその目に景色はしっかりと映っている。人として生きるには充分な世界を見ているのだ。目に映るモノ以外、それすら見通しながら。

「奈々美って色々と見えてるんだね、私と違って風すら見てそう」

「ええ、見えるって言うより聞こえてるわ」

 その発言に耳を疑う。那雪の間の抜けた面を拝み、薄紫の微笑みの花を咲かせる。

「風にも感情があるの」

 分からない話、恐らくは魔法と関係のあることだろう。このことに関してはこれ以上触れないまま、奈々美の視力が羨ましいのだと声に出していた。

「そうね、でもなゆきちのメガネ掛けた姿、カワイイけど」

 どうやらメガネが似合うのだということ。次は奈々美が感情を語るのだろう。

「私もメガネ掛けてみたい」

 そう言って那雪のメガネを柔らかな指でつまんで外し、そのまま奈々美の顔へと向かって行く。

 掛けられたメガネは美しい顔に馴染むことなくただ大きな違和感となってしまうだけ。

 那雪の目はそんな顔を上手く理解することが出来なくて奈々美に顔を近付けて数秒、必然の甘い時間を作り出して答えた。

「似合ってない」

「そう、なのかしら」

 恐らく顔の造りの違いだろう。那雪は全体的に薄くて面長なのに対して奈々美の顔はどうにも丸くて、柔らかな曲線を描く体型に見合った顔の膨らみから全体的な厚みまで、何もかもが違い過ぎた。

「そうね、なゆきちの薄くて大人っぽくなりそうな顔に似合うメガネじゃ私には似合わないかも」

 そこはしっかりと理解していた。それでもまだ掛けたまま、辺りを見回していた。

「なゆきちの目がしっかりと見えるようにする道具ね」

 そこは飽くまで住宅街の細い路地、那雪としては車が来ないか、それだけが心配だったものの、奈々美は何一つ気にしていない様子。

 木々が歪んで見える、家が何重にも重なって見える、車の輝きが幾つもの層を作り上げているように見える。

 一方で奈々美にはどのように見えているのだろうか、よく見える人物がメガネを掛けて見つめる世界など全くもって想像が付かない。

「ごめん、疲れてきた」

 当然の結果だった。メガネを受け取り本来あるべきところに戻ったレンズが景色の見通しを手伝う。頭を押さえ目を閉じる姿が柔らかな薄い茶髪と共に小刻みに揺れていて愛おしかった。

 茶色の髪はうねりに応じて光を跳ね返して所々が輝いて、那雪の目を強く惹き付ける。柔らかそうな指、瑞々しい果実を思わせる肌は魅惑の気配を隠し切れずにいた。

「おかえり、また手伝ってね」

 メガネに向けて薄っすらとした声で呟いた。

 今目の前にいる大切な人をずっと見つめ続けて行きたい。そんな願望の為にこれからもメガネの付き添いありでの人生を歩んでいく。

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