第29話 七草がゆ

 三が日は通り過ぎ、那雪の親は無事に帰って来た。しかしながら奈々美の方の両親は未だ戻りはせず。一月七日を迎えた今、奈々美の家にて那雪と二人で大切なこの時を過ごしている。共に宿題を終わらせて学校への備えは既に出来上がっていた。

 この日に行なうことと言えば、口にすることと言えば。無病息災の祈りと七草がゆの二つで一組。奈々美は料理のための火の一つさえ扱うことの出来ない有り様で、調理は全て那雪に任せることとした。

「実際に春の七草を買って来たからよろしく」

 那雪としては初めて見る姿。いつも親が用意するものは既に細かく切り刻まれて粥を作る際に入れるだけで完成するもので、全てが緑色では本当に七つの草が入っているのかどうか目だけでは確認を取ることが出来ない。

 那雪はそれぞれの姿を見つめる。ごぎょう、せり、なずな、すずな、はこべら、すずしろ、ほとけのざ。それこそ春の七草。

 小学生の頃には一つか二つしか覚えていなかったことを思い出し、成長を感じている那雪の手に握られた包丁は葉へと刃をめり込ませていく。去年の夏辺りまでは包丁に手を伸ばしたことすらなかった那雪だったものの、今となっては少しだけ手慣れたものだろうか。それでも人との関わり同様に不器用なそれはゆったりとしか進まない。

 包丁がある地域では古来より儀式のために用いられているのだと国語の教師が語っていたことを那雪は思い出す。古典の授業の途中に差し込まれた話、よくある逸れた知識。

 今この手に握っているものは目の前の草を人の口に入れるために加工する儀式に使うものなのかも知れない。万物に宿る命、その内の七つを今ここで人の身体に取り込むために刻もうとしているところで。

 無病息災を、食べ物への、自然の創り上げた恵みとヒトの手が織り成す偉大なる命への感謝を込めながらしっかりと切って、ご飯が炊けるまで待っていた。

「そんなに堅くならなくても良いんじゃないかしら」

 奈々美の言葉に身を震わせながら目と口元を緩め、頷いた。

 それからしばらく待った後、ようやく炊けたごはんを鍋に入れて水を注ぐ。ここから奈々美には決してこなすことの出来ない作業の始まり。鍋を火にかけて七草を入れて掻き混ぜる。ごはんの持つぬめりと煮えた七草の柔らかな心地が混ざり合っていく。昇る湯気の香りを満喫しながら那雪は塩をほんの少し入れて引き続き混ぜて。

 しばらくして水分はあまり感じられなくなり始めたその時、那雪は小さな陶器の深皿を取り出して火を止める。

 並べられた二つの深皿はこちらを覗き込む目玉のよう。可愛らしさを伝えるつもりのない丈夫で分厚いそれ、ザラザラとした手触りは自然の産物だと強く主張しているよう。

 出来上がった粥を深皿に移し、乾いた固い土のようなそれに湿りを恵みの潤いとして伝える。上がる湯気は踊っているようにも風無き所と思しき此処に微かな風の姿を映しているようにも見えた。

 太陽は最も高い所を飛ぶ。彼の眩しさを前に誰も彼もが手を掲げて目を伏し背負っていた影を引きずる。この明るみは今、窓から射し込み桟やカーテンの模様を影に変えてテーブルに色付けをする。そんな心を鮮やかに染める模様に目を当てながら深皿を並べて奈々美は告げた。

「私の身体に無病息災の恵みをおくれ」

 那雪は微かに顔を傾け両手を合わせて言葉にする。

「今日もお命いただきます」

 このようなことの繰り返し。人は自然から切り離されようと特別な世界を作り上げて文明に生きる者という新たな姿を得ようと必死になるものの、結局のところ自然に生かされて自然の恵みを受け取らなければ命を繋ぐことが出来ない。

 基本であり大切な事から目を背け続ける人生は果たして楽しいものだろうか。那雪と奈々美、豊かな世界の中で影に隠れた不便を知って味わい続ける二人には理解できないものだった。

 匙で掬い、口へと運ぶ。草の香りと米の味わいが熱い湯の中で絡み合って、味を見る毎にその深みは身体の芯にまで広がり続ける。

「美味しいわ」

 奈々美の声に同調して頷く。ただそれだけの反応が二人の想いを反響して染み込んで。

 匙は美味を口へと素早く運んで止まることを知らない。那雪にとっては初めて作った七草がゆ、奈々美にとっては初めて愛おしい人に作ってもらった正月の締めを思わせる一品にして逸品。

 そうして温まり、落ち着いた先にて奈々美の薄茶色の目は弱々しい動きで細められた。きっと満足したのだろう。

 愛と言う魔法は那雪でさえ操ることの出来る簡単なものでありながら効き目が現れる相手が限られた難しいもの。

 それを真っ当に受けた彼女は食器の片付けを担当した。

 洗い終えて奈々美は毛皮の感触を持ったソファに身を預け、隣に那雪を座らせる。

「とても美味しかったわ、ありがとう」

「どうも」

 奈々美の礼に答える那雪の声はいつも以上の元気を見せていた。

 日が傾くまでただひたすら眠ってしまおう。二人揃って考えた休日らしさはそこにあった。

 忙しい日々から振り落とされないようにするにはそうする他ない、無病息災を呼ぶには食事以外の努力も欲しい、そんな結論を太陽の明るみから隠れた所で下していた。

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