025

 夕刻の寮室。

 ぼんやりとチェストにもたれかかって、私はぱきっ、とゼリー飲料のパッケージを開けた。


 無意識にネクタイを外そうとして、私服だったのを思い出す。退院に際して、アイクが持ってきてくれたものだ。


 襟首に指を掛けて、軽く引っ張る。簡素な白いトップスは、どうにも着慣れない感じがした。フィオの担当になってからは捜査と聴取ばかりで、私服を着る機会もほとんどなかった気がする。


(……これから、どうなるのだろう)


 警察は事件から外された。ここからは軍や公安の仕事だ。私とフィオの人生が関わることは、もうない。


 ずきり、と胸が痛んだ。思い出されるのはフィオの涙だ。ぐしゃぐしゃに顔を歪め、私の頭を絞め上げて、絶望を絞り出すように泣いていた彼女の姿。


 思えば、彼女の瞳の奥底には、いつも切々とした悲しみがあった。穏やかで慈悲深い態度の裏側に、知らない感情を隠していた。


 その正体に、触れたいと思ったこともあった。彼女の持つ、なんらかの真実に。



『ただ、私が知りたいんだ。本当のことを』

『私も、知りたかったわ……』



 彼女の知りたかったこと。それは一体、なにに関する、どんなことなのだろう。私は、そして彼女は、この事件における、なにを知りたかったのだろうか。


(……そういえば)

 ふと、フィオの言葉を思い出した。


 なぜ私を選んだのか、という問いかけに、彼女は返事をしなかった。ワイアットの血筋にまつわる推測に、あの水色の瞳をかすかに伏せて、こう言っていた。知りたいのなら調べればいい、図書館のデータベースに答えがある、と。


 ずっ、とゼリー飲料をすすり、通信を立ち上げる。国立図書館のデータベースにアクセスすると、そこはログインの必要もなく開かれていた。


「ワイアット、ワイアット……ええと、これか」


 手当たり次第に検索をかけると、ちょうどアンドロイド黎明期の資料がヒットした。中を開き、閲覧する。


 そこには、アンドロイド誕生の歴史が書かれていた。

 ワイアットという男が、どれだけアンドロイドを愛し、慈しみ、彼らのために身を尽くしたか。淡々とした文体で綴られたそれは、彼の情深さをありありと伝えていた。


 しかし。


「……えっ?」

 ある文面を見た瞬間、私の全身は凍りついた。



 ――ワイアットはアンドロイドに生涯を捧げ、死ぬまで未婚を貫いた。

 ――その血筋は、現代にいっさい残っていない。



「……どういう、ことだ――」


 指先が、小刻みに震えはじめる。戸惑いと混乱で頭の中が真っ白になって、私は呆然と目を見開き、視界に展開された文面を見つめた。


 ――なにが、どうなっている。

 ワイアットは子孫を残していない? じゃあ私は? 私の名と血筋は、一体どこからやってきた?


(いや、そもそも――)


 なぜ私は、自分を『ワイアットの子孫』だと思ったんだ? 誰からそれを聞いた? 親か? 親戚か? そもそも私の生家とは? 記憶がはっきりしない……!


 ゆわん、と足元が持ち上がる感覚。沈みかけた船に乗せられて、不安定な水の底が抜け、重力を一気に失うような。


 ひどく不気味な、恐ろしい眩暈。ずくん、ずくん、と頭の奥が脈動した。


 冷え切った暗闇の底で、なにかが小さくまたたいている。またたきはフラッシュバックのように強くなり、いくつもの記憶がちかちかと光を放ちはじめた。



 最新の家電しかない寮室。妙に着慣れない私服。


 フィオも食べたというゼリー状の流動食。


 着替えもせず眠った日々。外さなかった黒手袋。


 初対面としか思えないほどよそよそしい同僚たち。


 勤務歴の長いアンドロイドだけが私と親しかったこと。


 種族の違うルイーズと私が、同じ病棟に入院していた理由。



(……まさか……)

 ゆるゆると、包帯の巻かれた左手を持ち上げる。フィオの澄んだ声が脳裏に響く。


『あなたの……手を、握ってみたい』


 あのとき、彼女は〝なにか〟の形を確かめるようにこの手を撫でていた。

 この、を――


(そんな、まさか……)

 震える手で、包帯を解く。


 はらり、と白い布が舞い落ちて、現れたのは――



 ――左の小指に光る、ストレス管理リング。



(ぁ……あ……っ)


「――あーあ、気付いちまったか」


 びくッ、と全身が痙攣した。弾かれたように振り返る。

 寮室の入口、鍵がかかっていたはずのドアは開いていて、長身の人影が、壁にもたれかかっている。廊下からの逆光を背負って、人物の表情は見えない。


 だが、その声には覚えがあった。この半月ずっと傍にいた、会話だって交わした、聞き慣れたと思い込んでいた、あの声――。


 人影が顔を持ち上げる。鳶色の瞳が、きらりと光った。


 愕然とする私に、アイクがささやく。


「残念だよ。思い出さないほうが、おまえのためだったと思うぜ」


 ふらり、と足元がふらついた。がたん、と身体がチェストにぶつかって、写真立てが音を立てて落下する。


 衝撃で壊れた写真立てから、はらり、と写真がこぼれ落ちた。サクラが着任したときに、家族で撮った記念写真。床の上をひらひらと滑ったそれ、フレームで隠れて見えなかった部分には――30年も前の日付が記されていた。


(……うそ、だ――)


 こぼれそうに目を見開き、痙攣のような呼吸を繰り返す。

 呆然と震えている私の耳に、見たことのない目をしたアイクの、押し殺した声が響いた。



「悪ぃな。俺はおまえの、お目付け役だったんだよ。

 ツバキ――いや、Qia_9X_Tsubaki」



 私の奥で、なにかが音を立てて崩れていく。

 闇の底、記憶のずっと下の方から、ぐわり、と強烈な奔流が溢れ出した――

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