045

 美しい翡翠色と視線を合わせ、私は小さく息を吸う。


「その事情に――君が付き合う義務はあったのか」

「っ……!」


 ぴくっ、とミアの指先が動いた。

 私はじっと彼女を見つめたまま、続ける。


「君の理由はわかった。無辜のアンドロイドたちのため、世界の平和を守るため、すべての真実を隠蔽する。それは理解した。だが、そこに君の心は存在しない」

「……それは」


 ひびわれたような声に、ずきり、と胸が痛んだ。それでも続けた。


「私を殺すとき、君は震えながら泣いていた。当たり前だ、人を殺すのだから。それも頭蓋を砕き割り、電脳を押しつぶして、手のひらにその感触が残るような、むごたらしい方法で」

「っ――やめて」

「君は本当に納得していたのか? これでいいと思ったのか? この現実を、心から受け入れていたのか?」

「わたし、私は……」


 痛ましい声に思わず顔が歪む。だけど、私はどうしても、黙っているわけにはいかなかった。


(だって、君はこんなに傷付いているのに、)

 くちびるを開く。


「私には、君がただフィオに――」

「言わないで!」


 ミアが逃げるように激しく首を振った。白い両手が持ち上がり、耳をふさごうとする仕草。

 けれどその手が耳元に触れる前に、私ははっきりと断言した。


「――いいように利用されたようにしか、思えない」

「ッ……‼」


 ミアの目が、愕然と見開かれる。すっかり色を失ったくちびるから「ちがう……」と弱々しい声がこぼれ落ちた。


「あの人は私を愛していた。私は、愛されていたのよ……」

「たしかに、そうだろう。君の身体を殺せたということは、そこに間違いなく愛はあった。だが、愛してさえいれば、どんなことをしても許されるのか?」

「……っ」

「そんな理屈がまかり通るのなら、私はサクラを殺したことを、ここまで悔いたりしなかった」

「……ッ、……」


 ミアは答えない。ただじっと、耐え忍ぶように黙っている。

 ずきずきと痛む胸をこらえ、私は続けた。


「たしかに、他に方法はなかったのかもしれない。それでも、フィオは残酷だった。君は愛する人に利用され、信じた幸福を裏切られ、たった一人で遺されたんだ。すべての責任を押し付けられて」

「……やめて……」


 ひらひらと、私の周りに桜が舞う。後から後から、私を守る花びらは降り続けるのに、ミアの側に寄り添うものは、なに一つ存在しなかった。あんまりだと思った。


 人ふたりの魂を容易に収納できるほど広大な、水色の電脳空間。空っぽの中にかすかに揺れる波紋が、どうしようもない欠落として、ただそこにある。


 ミアの瞳には、痛いほどの愛と絶望が見えた。それなのに、口元の笑みを決して崩さないミアが、哀れで悲しかった。


 不自然に保たれた微笑みから、「だって」と掠れた声がする。


「言われたから。こんなこと君にしか頼めないって。真実を隠すにはもう、他に手段はないからって。そして彼女は、私の目の前で死んだ。私には遺志を果たすべき理由がある」

「その〝真実〟がどんなものか、教えてすらもらえなかったのに?」

「ッ――仕方ないじゃない‼」


 ミアの悲痛な叫びが、がらんとした水色の空洞に響き渡った。


「フィオはずっと強者だった。世界中の弱き者を愛し、守り、どんなに苦しくても人類を導き続けた。ただの一人の女としての、ささやかな幸せすら、彼女には許されなかった……それがどれだけひどいことか、私は良く知っていたわ。だから――」

「だから何をされても許すのか? フィオがずっと責務に耐えてきたから、後を頼むと言われたから、目の前で死なれたから、だから許すと? 愛する人に裏切られ、戻るべき肉体も失い、君は今、無実の罪で殺されようとしているんだぞ!」

「わかってる……わかってるわ……」


 すうっ、とミアの真っ白い顔が持ち上がる。青ざめた顔の中央で、翡翠色をした絶望的な瞳が、静かに光っていた。

 くちびるが動いて、ミアの震える声がする。


「言われたの。ツバキを殺して、私の代わりに死刑になって、一緒に死んでくれって、言われたのよ。世界でいちばん幸せになるはずだった日に、世界でいちばん愛した人から」

「ミア……」


 かける言葉が見つからない。こんなの、あまりにひどすぎる。

 ミアはかすかに目元を歪めると、いびつなほど美しく微笑んだ。


「私、好きだったから。フィオを愛していたから。だから許すの。なにもかも、もういいの」

「でも、君は――」

「お願いよ……もう、私を放っておいて……これ以上、なにも聞きたくない……」


 消え入りそうな声でささやいて、ミアは静かに下を向く。その前髪の隙間から、透明に光る雫が、きらきらっ、といくつも落ちていった。


(っ……)


 胸の痛みを必死にこらえる。

 つらいのは私じゃない、ミアだ。そのミアはただ下を向いて、ぽたぽたと涙をこぼしている。立ち尽くす彼女の足元にいくつもの雫が落ちて、乱れきった波紋が幾重にも、壊れながら広がっていった。


「……ミア、私は……」


 この人のために、なにか大切なことを言ってやりたい。そう思うのに、ひとつたりとも言葉が出ない。どんな台詞も、慰めにすらならないとわかっていた。

 ぎりっ、と両手を握りしめる。くちびるを噛み締めて、私はゆっくりと顔を上げた。


「ミア」

「……っ」


 ミアは私を見ない。じっと俯いたまま、自らを打ち据える絶望に耐えている。その姿があまりにも頼りなく見えて、私は静かに口を開いた。


「それならば――なぜ私を助けたんだ」

「……なぜ、って」


 ミアが顔を上げる。呆然とした白い頬に、幾筋も涙が伝うのが痛々しかった。

 私は言う。


「本来なら、君は私を助ける必要などなかった。私を見捨てて、君もそのまま処刑されれば、フィオの遺言は果たされる。謎はただ謎のまま、世界はすべて元通りになる。君はそれを望んでいたはずだ」

「それは……」

「けれど君はそうしなかった。なぜだ?」


 問いかけに、ミアは薄くくちびるを震わせると、

「……わからないわ」とつぶやいた。


 私は小さく息を吸って、言った。


「私には、わかる気がする」

「え……?」


 翡翠色の瞳が、何度かまばたく。きらきらと、目の端から伝い落ちる透明な雫が、悲しいほど美しい。

 その澄んだ眼差しをまっすぐに見つめて、私は断言した。


「その理由は――君がとても、善良な人だから」


 ミアが目を丸くする。私はぐっと眉を寄せ、感情をこらえて、心を振り絞るようにささやいた。


「きっと……ただ、それだけの理由なんだ」

「……違う、私、そんな――」


 ミアの言葉を遮って、私は続ける。


「君の評判を聞いた。素直で純朴な心を持った、芯が強くて優しい女性。ミア・アンジェリコはそういう人物だったのだと、君の知人は言っていた。私も、そう思っている」

「え……」


 まるで虚を突かれたように、ミアが黙り込んだ。

 ひるんだように見開かれた瞳を、私はじっと見つめる。


「君はフィオを許すと言った。どれほど手酷く裏切られても、どんなつらい目に遭っても、彼女の遺言を果たすのだと。でも、目の前で失われる命を、君は見捨てることができなかった」

「っ……」


 ミアが視線をさまよわせ、なにか言いたげにくちびるを震わせる。けれど彼女はなにも言うことなく、そのまま口を閉じた。


「ただ助けたかったから、そうせずにはいられなかったから、私を助けた。君はそういう人なんだ」

「……だから、なんだっていうの……?」


 押し殺した、低く震える声がした。

 肩を落とし、うなだれて、ミアは絞り出すように言う。


「馬鹿な女だって笑えばいいわ。私の処刑に、全てのアンドロイドの命が、世界の平和がかかっている。そんな大事な局面で、いっときの情に流された私を、愚かな女と笑えばいい……!」

「っ、そうじゃない! ただ私は、君が――」


 衝動のままに口を開いて、だけどそこから先が、まるで言葉にならない。

 感情はいくらでもあった。同情も、哀れみも、ひどい境遇への憤りもあった。それら全ては間違いなく本当なのに、なにもかもが違うんだとも思った。


 胸に浮かぶ情動は、感情任せの言葉たちはどれもこれも、傷付いたこの人のために差し出したかった本当の気持ちじゃない。私にはもっと、彼女に伝えたいことがあるはずなのに。


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