046
「あのとき、君は私に尋ねた。自分のことを善良だと思うか、生きるに値すると信じているか、と」
ミアは答えない。ただ泣きながら、絶望的な目をして私を見つめている。
真っ暗な翡翠色に向かって、私はただひたすら、可能な限りの誠実を込めて問いかけた。
「同じ言葉を君に返すよ。君は自分を善良だと思う? 生きるに値すると信じている?」
「意味がわからないわ。そんな質問をしたって、もう何も――」
「答えてくれ、ミア」
「……っ」
ミアはしばらく私を見つめていたが、小さくくちびるを噛みしめると、静かに目を閉じた。
まなじりからつうっと、一筋の涙が落ちる。数秒の沈黙。
そして、ミアのくちびるから、掠れた、はっきりとした声が聞こえた。
「――信じない。私は、生きるべきじゃない」
「どうして」
問いかけに、ミアは薄く目を開く。うつろな、全ての気力を失ってしまったような、深い諦念を帯びた瞳。
「だってもう、私にはなにもない。愛した人も、帰るべき肉体も、これからの未来も……なにもないわ。私はもう人間じゃない。アンドロイドですらない。こんな状態で、どうやって生きていけっていうの? なにもかも……無意味だわ」
それだけ言うと、ミアは顔を伏せ、静かにすすり泣き始めた。
無限にも近い広大な水色の空間に、ミアの嗚咽だけが、小さく響いている。
肩を震わせる小さな人影に向かって、私は「それでも」と呼びかけた。
「それでも私は、君のことを善良だと思う。生きるに値すると信じている」
ミアは無言で首を振った。「もうやめて」と小さな声。
「何が望みなの。私のことを暴き立てて、馬鹿な女と自覚させて、それで満足?」
「そうじゃない……!」
どんなに言葉を尽くしても、なにひとつ伝わらない。それでも、諦めきれなかった。
息を吸って、前に踏み出す。足の裏で、ぴちゃん、と波紋が広がった。
いくつもの波紋を作りながら、ミアに歩み寄り、うなだれた手を取る。小刻みに震える指先は冷え切って、哀れなほど細かった。
握った手を掬い上げて、きっぱりと告げる。
「私は警官だから、無実の被害者を見過ごすことはできない。でも、君に生きてほしい理由は、それだけじゃない」
そう言うと、もう片方の手も使って、両手でミアの手を包み込んだ。リングなどない人間の手、そこに少しでもぬくもりが移るよう、手の甲を静かに撫でさする。
ミアはうなだれて泣きながら、されるがままになっていた。その翡翠色を覗き込み、私は言う。
「君は愛する人に裏切られ、一方的に後始末を託されて、犠牲になって死んでくれとまで言われた。生きる希望を失って、自暴自棄になっても仕方がない状況で、それでも私を助けてくれた」
冷え切った細い手を、ぎゅっと握りしめる。触れ合った箇所から、少しでも、なにかが伝わるように、強く。
「私は君を尊いと思う。美しいと感じている」
まっすぐに、ごまかすことなく瞳を見つめて、言った。
「だからきっと、これは私の我儘なんだ」
ミアが未来を望んでいないことくらい、わかっている。それでも、絶対に嫌だ、と思った。
この人はずっと耐えてきた。裏切られても、傷付けられても、どんなことをされたとしても、ただひたむきな心で、愛した人の遺言を守り続けた。
(私はただ――)
――この人に、報われてほしいだけなんだ。
握った手に、額を押し当てる。かつて彼女が私にしてくれたように。
祈るような仕草のまま、感情のすべてを込めてささやいた。
「私たちが君を守る。生きて、幸せになってほしい」
心の中、全部を差し出すようにつぶやく。目の前で、ひくっ、とミアの呼吸が鳴る音が聞こえた。
「っ……」
顔を上げる。
ミアは――顔を歪めて、泣いていた。
あの穏やかな微笑みなど、もはやどこにも存在しない。ひっ、ひくっ、と喉を鳴らして、ミアは美しい顔をぐしゃぐしゃにして、震える声を絞り出した。
「……わた、わたし、……ずっと、つらかった……」
「ミア――」
どん、とミアが身体ごとぶつかってくる。よろめいた背を抱きとめると、ミアは私の肩口に顔をうずめた。
引き絞るような嗚咽が、耳のすぐ横で聞こえてくる。
「悪いことなんかなんにもしてない……ただ、ただ私は、好きだっただけなのに……っ」
「ミア……」
あまりにも悲痛な吐露に、胸がぎゅっと痛くなった。
ミアの手が、どん、どん、と何度も私の胸を叩く。弱々しかった手応えは、繰り返すうちに、次第に強い力へと変わっていった。まるで全ての痛みを叩きつけるように、強く、とても強く。
すすり泣く声が叫ぶ。
「ひどい、ひどいわ、なんで、どうして⁉ こんなのってない、あんまりよ……‼」
「……うん」
本当に――その通りだ。
泣き崩れるミアの頭をそっと撫でて、私はただ、うん、うんと相槌を繰り返した。
肩口が、熱い涙で湿っていく。人間の、必死に生きている人の、命ぜんぶの温度だと思った。
「むごすぎる、こんな一人で、なにもかも遺されて……許さない、あの人、絶対に、ゆるさない……」
「それでいい。それでいいんだ」
「そうよ……恨んでやるわ、憎み続ける、忘れたりなんかしない、一生、一生ずっと、」
ひっ、ひっ、と痙攣のように喉を鳴らして、ミアはただ泣き続ける。
けれど。
唐突に、私を叩き続けていた拳から力が抜けた。白い手が、ずるずると胸元を滑り落ちていく。
そしてミアは、ぎゅう、とすがりつくように私に抱きついた。
ぐりぐりと、濡れた目元が押し付けられる。耳元に、消え入りそうな震え声。
「一生……愛してたのに……っ」
「……ミア……」
すがりつく力が強くなり、ミアはいっそう大きな声で嗚咽をあげた。
細い背中に手を回し、きつく彼女を抱き返す。肩を痙攣のように震わせて、ミアの涙声がつぶやいた。
「世界なんかどうでもいい……フィオが側にいてくれれば、それだけでよかった……なんで、なんで死んじゃったの……」
「……うん」
その気持ち、とてもよくわかるよ。
耳元でささやくと、ミアは引きつった呼吸を繰り返し、嗚咽混じりの声をいくつも重ねていった。
「そばにいてほしかった」
「うん」
「ずっと一緒にいたかった」
「わかるよ」
「生きていてほしかった」
「その通りだ」
ぎゅうっ、とミアが私にすがりつく。
「あの人と、幸せになりたかった……‼」
「……っ」
魂のすべてを振り絞るような声に、ぐっと息が詰まった。
泣いて、わめいて、ありとあらゆる嘆きと恨みを吐き散らして、でも。
この言葉がきっと、ミアの本当の心なのだと思った。
そっとミアの髪を梳く。私を守る桜の花びらが、腕の中のミアにちらちらと降り掛かった。
目を閉じて、サクラのことを思い出す。かつて彼女が私に与えてくれた、すべての暖かいものを思い浮かべる。
私はミアのために、精一杯やわらかな声を作った。優しかったサクラのように。
「君の欲しかった幸せは、もう戻ってこないかもしれない。でも、私と仲間が君を守る。側で支えると約束する」
感情のすべてを込めて、ささやきかける。
この人の心を、少しでも守れるように。心からの祈りを込めて。
「だから――生きてほしい。私たちと一緒に」
腕の中で、すすり泣く声がした。
震える嗚咽が少しずつ小さくなって、やっと聞こえなくなったころ――ミアはようやく、こくり、と小さくうなずいた。
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