最終章

044

 懐かしい口調の、けれど初めて聞く声で、ミアは静かに私へ微笑みかけた。


「久しぶりね。……はじめまして、と言うべきかしら」


 穏やかな口ぶりに、私はゆっくりと首を振る。


「いや。今さら、そんなものは不要だろう。私は君を、そして君は私を、とても良く知っている。それこそ、誰にも言えない心の傷も、流した涙の色さえも」

「……ええ、そうね」


 とても静かなささやきが聞こえた。うっすらと、翡翠の瞳が細くなる。痛ましげに眉を寄せるのは、あの取調室で何度も見た仕草だった。

 ミアが言う。


「あなた、ずいぶんと無茶をしたのね」

「まあな。ここは電脳の内側か」

「そうよ。あなたが撃ち殺される直前に『テセウスの亡霊』を起動したの。そして視界間通信を使って、あなたの魂を私の中に招き入れた」

「私の中、ではないだろう」

「……そうね。訂正するわ。かつてPh_10nyが使っていた電脳の中に、よ」


 ミアはじっと耐えるような目をして、ただ静かに微笑んだ。白いおとがいが持ち上がり、彼女は水色の空間をそっと見渡す。


「ここは広いわ、とても。あの人は、こんなところに住んでいたのね。膨大なデータと、最高の機能と共に。ただの人間の魂じゃ、持て余してしまうほど広大で……虚しくなる」

「だから私の魂も収容できた、ということか」


 ミアは無言でうなずいた。


「いま、ここの時間は圧縮され、極限までゼロに収束されているわ。現実では、今まさに、あなたの頭に銃弾が吸い込まれつつあるところよ。あのわずかな時間であなたを助けるには、こうするしかなかったの」

「……」


 現状はわかった。私は尋ねる。


「君の挙動に異常はなかった。この身体には、一人分の魂しか入っていなかったはずだ。Ph_10nyはどこにいる」

「死んだわ」


 あまりにもあっさりとミアは言った。

 翡翠色の瞳がすうっと動いて、静かに私を見つめる。ミアはかすかに微笑むと、あの、恋慕と絶望の入り混じった瞳で続けた。


「あの結婚式の日、フィオは私の耳にアンプルを突き立てた。中に入っていたのは腐食液。電脳外殻を焼かれ、私の脳機能が停止するまで、数秒の時間があった。フィオは死にゆく私にキスをして、まっすぐに瞳を合わせた」

「まさか――」

「その、まさかよ」


 ミアの微笑みが、そっとささやく。


「その瞬間、フィオは『テセウスの亡霊』を使って、私と身体を入れ替えたの」

「じゃあ、彼女は……」

「私の肉体と共に死んだわ。私の目の前で、ね」

「そんな……」


 それはあまりにも残酷な事実だった。

 人生でもっとも喜ばしい、幸福の絶頂のはずの結婚式。そこでフィオはミアの肉体を殺害し、その中に入り込んだ。


 おそらくは――アンドロイドには絶対不可能な〝自殺〟を行うために。


 絶句している私に、ミアはかすかに笑うと、続けた。


「あの人が死ぬときも、こんな風に話をしたわ。この広すぎる空間で、今みたいに二人で、向かい合って」

「ミア……」


 微笑みを崩さぬまま、ミアは言う。


「遺言をね。託されたの」

「Ph_10nyの、遺言……?」

「そう。あなたのことよ」

「私の……」


 意味のない復唱ばかりの私に、ミアは眉を下げて小さく笑った。


「時間がないから端的に伝える、と前置きして、彼女は言ったわ。ワイアット研究所のQia_9X_Tsubakiというアンドロイドを殺してくれ。君と出会えるよう、手筈は整えておいたから、って」


 ――手筈。

 それはもちろん、私の記憶を改竄したことだろう。


 私があんなことになれば、ワイアット研究所は死にものぐるいで記憶を戻させようとするだろう。その過程で、どうしたってフィオとは顔を合わせることになる。なにしろ彼女は、私の担当官だったのだ。


 ミアが微笑む。


「私の魂は人間だから、どんな身体に入っていようと、愛の有無による人殺しの制約はない。だからフィオは私に頼んだのでしょうね」

「だからって、殺人だぞ⁉ こんなのはあまりにも――」

「わかってるわ」


 私の言葉を遮ったミアの声は、深い諦念と、悲痛な覚悟に満ちていた。


「だから私はずっと、迷っていた、悩んでいた、考え続けた……ただひたすら、牢の中で、あなたのことを」


 美しい笑みを崩さぬまま、翡翠の瞳がうっすらと細くなる。


「私はあなたを知らない。あなたが何者なのか、何をしたのか、なぜフィオがあなたを殺せと命じたのか、何ひとつ知らない。なんなら、あなたが本当にQia_9X_Tsubakiなのかすら、最初は疑わしく思っていたわ」

「初めて出会ったとき、私はその名を使っていなかったからな……」

「そうね。でも、あなたは〝ツバキ・ワイアット〟と名乗った。ワイアットに子孫がいないことは誰でも知っている。あの研究所の名の付いた、ツバキという女性――」

「それで、フィオが言ったのは私のことだ、と思ったんだな」


 ミアがうなずく。


「でも、確証がなかった。だから、確かめようと思ったの。ツバキ・ワイアットは人間か、それともアンドロイドか。そして、もう一つ確かめるべきことがあった。もしアンドロイドだったとして、あなたは死ぬべきか、生きるべきなのか」

「……そして君は、私を殺した。結論は『死ぬべき』だったのか」

「……」


 ミアの瞳が、一瞬だけひどく沈痛な色を帯びた。その暗さをまばたき一つで押し殺し、彼女は静かに下を向く。


「うちに、あの人の書き置きがあったでしょう。私に長生きしてほしい、って」


 私は無言で目を伏せて「ああ」と肯定した。

 ミアが言う。


「あれを見た瞬間、私は悟ったの。なぜフィオが私を殺すことができたのか。アンドロイドの殺人にまつわる、真実を」


 翡翠色の瞳が何度かまばたいて、長いまつげが頬に影を落とした。


「あの書き置きには、いくつもの涙の跡があったわ」

「当然だろう。フィオは君を愛していたのだから」

「……当然、ね。あなたにはわからないかもしれないわね」


 ミアの瞳が持ち上がって、まっすぐに私を見る。


「あの人は、どんなに苦しくてもいっさい弱音を吐かず、たとえ一人きりの時でさえ、絶対に涙を流さない人だったわ。ずっと誰かのために身を尽くし、世界でもっとも強靭な生命としての矜持を崩さなかった。そんなフィオが泣いた。私が、そうさせてしまった」

「君はそれだけ、フィオにとって重大な人物だった、ということか……」

「そうよ。それこそ、生殺与奪のすべてを握るほどに」


 にこり、とミアが微笑む。その笑みは静かで、美しく、どこまでも澄んでいて、こんな現実にはまるで似つかわしくなかった。

 愛と痛みと昏い諦念を瞳の底に押し殺したまま、ミアは言う。


「それで、わかったの。フィオはなぜ、私を殺したのか」

「自殺するために、唯一殺害可能な君の存在を利用した……」

「……そうよ」


 ミアは小さくささやくと、目を伏せて笑った。


「あの人ね、プロポーズのときに言ったの。『ただの一人の女性として、私に幸せでいてほしい。その言葉に嘘はない?』って。私がうなずくと、彼女は言った。『結婚してほしい。死ぬ前に、一回でいいから、普通の人みたいに幸せになりたい』と」

「……っ」


 どんなときも圧倒的強者としての立場を守り、個人としての幸福を投げ出し、人類のために奉仕し続けたフィオ。その彼女が最後に願ったのが、『ただの女としての幸せ』だったのか。


「その言葉の意味を……もっとちゃんと考えてあげればよかった……」


 ぽつりとつぶやいたミアの語尾が、かすかに震えている。かけるべき言葉が見つからず、私はただくちびるを開いて、そのまま閉じた。

 翡翠の瞳が持ち上がり、ミアはどこか遠くを見る目をする。


「あなたの手に触れて、アンドロイドだと確信して……私はワイアット研究所の人たちに言ったの。ツバキ・ワイアットの正体は、Qia_9X_Tsubakiというアンドロイドなのでしょう、と」

「それで、彼らは?」

「Ph_10nyの記憶が戻りかけていると思ったのでしょうね。あなたのことを、色々話してくれたわ。過去も、素性も、その罪さえも」

「私がかつて、サクラを殺したことは、そのときに聞いたのか」


 ミアが静かにうなずいた。

 口元の微笑みをわずかに悲しみの形に変え、彼女は続ける。


「すべてを知った私は……あなたを殺すことに決めた」

「世界平和のために?」


 ミアは目元を歪めると、

「いくら責めても構わないわ」と言った。


「こんな時世に『実はすべてのアンドロイドが、愛する人を殺す可能性がある』なんてわかったら、それこそ全てがおしまいよ。あの人が命をかけて、真実を守ろうとしたのも理解できる。ましてや、彼女は反アンドロイドの風潮を作ってしまった本人なのよ。どれほどの責任を感じたか……」

「……」


 なにもかも諦めきった、断罪を待つような声に、私はくちびるを噛みしめる。

(でも、だからって――)

 胸の内に込み上げた、痛みにも似た言葉があった。言うべきかどうか、ひどく迷った。この言葉はきっと、ミアにとってこの上なく残酷だ。


 目を伏せる。視界の隅で、ひら、と白い花びらが舞い落ちた。

 そっと視線を上げれば、広大な水色の空間で、私の周りにだけ、桜の花が静かに降り注いでいる。ちらちらと光りまたたく花びらは、まるで私を守っているかのように思えた。


 まっすぐにミアを見る。彼女の周りにはなにもない。守るものも、降り注ぐ光も、なにも。ただあまりにも広すぎる、なにもない空間に、ひとりぼっちで立っているだけ。頼りない足元から漂う波紋は、どこにもぶつかることはない。


(……ミア……)

 この空洞に、ミアは、ひとりだった。それで決心がついた。


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