エピローグ
ガラス張りの扉を開けると、からん、とベルの音がした。
店内を見渡す。待ち合わせの相手は、窓際のテーブル席に座っていた。私に気が付いた彼女が、軽く手を持ち上げる。銀の短髪を耳にかけ、穏やかで慈悲深い微笑みの中、水色の瞳が美しく細められた。
向かい合って席につく。待ち合わせの相手――ミアは、私を見て嬉しそうに声を明るくした。
「久しぶりね、ツバキ。元気だった?」
「君こそ。見たところ、息災そうだが」
「ええ。今日も、お墓参りから帰ってきたところよ」
そう微笑むミアは、懐かしむような眼差しで目を伏せる。私は「そうか」とつぶやくと、アンドロイド用のコーヒーを注文した。
「私も、近いうち行こうと思っている。サクラの墓前に」
「お互い、近況報告ならいくらでもあるものね」
「そういうことだ」
目を合わせて、笑う。澄んだ水色の奥にはもう、暗いものはすっかり見えなくなっていた。ほっと胸の中で息をつく。ミアの明るい微笑みに、私は穏やかな日常を心から噛み締めた。
あの、議事堂での出来事のあと。
官庁のテロで死亡した首相に代わって急遽任命された新首相は、すみやかにフィオの処刑中止命令を出した。彼は私とミアに賛同し、こう言った。
『君たちの闘いに、心からの敬意を払う。亡き人々の想いに応えるためにも、二種族の融和は成されなければならない。ここから先、世界平和はわれわれ政治家の仕事だ。どうか安心して、あとは任せてほしい』
もちろん、あとは任せろと言われて、全てを丸投げすることはできない。私たちは後始末に追われ、これからも必要に応じて融和のための活動に協力することになった。
もっともその活動に貢献しているのはミアだ。彼女はその特殊な立場を生かして、今も世界中を飛び回っては、アンドロイドと人間の橋渡しを続けている。
一方の私はといえば、すべてが明らかになった後、サクラの事件で裁判を受けた。その結果、過失致死が認められ、精密検査を兼ねた謹慎を経たのち、中央警察に復帰した。今は刑事としての仕事を続けつつ、たまに政府の要請に応えている。
アイクは公安に戻った。けれどなにかと理由をつけては、私のいる刑事課に顔を出している。彼はまったく違う組織の人間のはずなのに、今となっては刑事課の一員のような扱いになっているのだ。その人付き合いのうまさは、やはりどうにも侮れない。
そしてルイーズは、タムラ所長失脚後、ワイアット研究所の所長に就任した。今は『テセウスの亡霊』を人間に適応するべきかの政府討論に参加して、法整備に協力しているらしい。亡きワイアットに恥じぬよう、これからは彼の代わりにアンドロイドを守りながら、真理と倫理の両立を追求していくのだとか。
誰もが皆、それぞれの道を歩んでいる。痛みと悲しみを乗り越えて。
そこまで考えたとき、注文のコーヒーがやってきて、ふっと私の思考は途切れた。カップに口をつけ、ちらりとミアを見る。
さらさらした銀色の短髪、透き通った水色の瞳。すっかり見慣れた〝Ph_10ny〟の身体だ。あれ以来、ミアはこのボディを大切に守り続けている。
『あの人の遺したものと、一緒に生きていこうと思うの』
処刑中止命令が出たあと、ミアはそう言って、フィオのボディに残ることを選んだ。ミアが望めば、生前の彼女に近いボディも用意できただろう。でも彼女はそうはしなかった。
元のQia_9Xモデルに戻る私を見送ったときの、ミアの言葉をまだ覚えている。
『たしかに私は、生まれ持った肉体を失った。人間でもアンドロイドでもない、テセウスの船をさまようだけの亡霊になった。だからこそ――私がどの船に乗るのかは、自分自身で決められる。私は、私として生きていくわ。かつてPh_10nyを愛した、ただのミア・アンジェリコとして』
そう言ったミアの瞳は力強く輝いて、美しい意志であふれていた。だから、きっとこれで良かったのだと思う。
からからとグラスの氷を混ぜながら、ミアが微笑む。
「そういえば、彼とはどうなの」
「アイクか? 相変わらずだよ。すぐに調子に乗るしふざけるし、その癖おいしいところは全部持っていく。今となっては刑事課の連中、みんな彼の味方だぞ。優秀なのが逆に腹立たしいな」
「もう。そういうことじゃないわよ。もっとこう……なにかないの?」
「なにかって……」
「色めいたことよ」
「っ……そ、それは」
「あったのね」
「……証言を拒否する」
「だめよ。尋問させて。ね?」
「ぐっ……」
意味もなくコーヒーのカップを回す。取手がぐるぐる円を描く。
私はもごもごと言いよどむと、ちらりとミアを見上げて、もう一度コーヒーに視線を落とした。「ええと」とか「その」とか、意味のない言葉がぼろぼろこぼれる。
「……っ、先日……結婚してくれって、言われた……」
「まあ。素敵」
ぱちん、とミアが両手を打ち合わせた。うう、と勝手に呻きがこぼれる。かあっ、と耳まで熱くなるのを感じた。温度調整を入れようとしてもうまくできない。
ミアは嬉しそうに目を細めると、
「で、返事は……聞かなくてもわかるわね」と笑った。
「ち、違う! ま、まだ返事は、してなくて……」
「でも、あなたの中では決まってるんでしょう」
「え、ええと、それはその……」
ぐう、と喉が詰まる。私はちらりと上目遣いでミアを見ると、蚊の鳴くような声で、
「どうしても、言わないと駄目か……?」とつぶやいた。
ミアが思い切り吹き出す。水色の瞳がきらきら光って、彼女は楽しげに声を上げて笑った。
「いいえ。その答えは、彼に一番に伝えてあげて」
「ううう……」
駄目だ、顔が熱い。
ミアはくすくす笑うと、「でも、よかったわ」とテーブルの上で両の指先を絡め合わせた。
「あなたたちを見ていると、とても安心する」
「安心?」
「ええ。未来は明るいんだって気になるの」
「……そうか」
ミアは種族間融和のため、世界中を回っている。アンドロイドに敵意を抱く人間の起こす戦乱は、まだ収まりきってはいない。きっと醜いものや悲しいことを、たくさん見てきたのだろう。
私が沈黙を保っていると、ミアは眉を下げて少しだけ笑った。
「大丈夫。少しずつだけど、理解者は増えているわ。世界はこれから、きっと良くなっていく」
「ああ……そうだな」
辺りを見回す。平和なカフェの中は、楽しげな会話と明るい笑みで溢れていた。人間用のドリンクを飲んでいる人も、アンドロイド用のスイーツを食べている人もいた。種族の隔てなどなく、ただ睦まじい人々が同じテーブルにつき、穏やかな時間を過ごしていた。
私は言う。
「アンドロイドも人間も、私たちはすでに生まれて、ここにいる。存在しなかった頃には戻れない」
「そうね……今の現実の中で、生きていくしかないんだわ」
「ああ。だが、きっと君の言うとおりだ。未来は明るい」
なぜなら、アンドロイドも人間も、愛し愛されることができる存在だから。どんな痛みや苦しみ、憤りや拒絶があったとしても、愛することをやめられないから。
私は、ずっと、それを信じている。かつて苦しんだ人々と、いま愛を抱いている人々を見て、私は希望を実感したのだ。
立てかけてあるメニューを開いて、ミアが微笑む。
「ね、なにか食べない? 甘いものがいいわ。ツバキはなにが好き?」
「え? 私は……この『春の名残のムース』がいいかな」
「じゃあ私は、『ラムネのゼリーケーキ』にするわ。オーダーするわね」
手際よくミアが注文を追加した。両頬杖をついて、くすくすと水色の瞳が笑う。私も笑った。
「楽しみね」
「楽しみだな」
窓の外で風が吹いて、すっかり濃くなった緑の木々を揺らしていく。日差しにはもう、夏の気配が見えはじめていた。目まぐるしかった春が嘘のようなきらめきに、私はかすかに目を細める。
早々に運ばれてきたケーキたちに、ミアが歓声を上げるのが聞こえた。テーブルに視線を戻すと、美しく飾られた二つのケーキが並んでいる。
桜色と、水色の綺麗なケーキ。
懐かしい、私たちの愛すべき色。
それを見て、私はミアと顔を合わせて、笑った。
[ テセウスの船と、その亡霊 ── 完 ── ]
【完結・SF】テセウスの船と、その亡霊 Ru @crystal_sati
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