027

(……サクラ……?)


 鍵も持たずに出ていったのか。開けてやらなければ。

 ふらふらと立ち上がる。映像を確認することもなく、私は玄関に向かい、ドアを開けた。すると。


「……あの、ツバキさん、でしょうか……」

「――ッ!」


 そこにいたのはサクラではなかった。

 震えながら立っている男は、忘れようにも忘れられない、シスをなぶり殺しにしたグループの一員だった。


 すうっ、と足元が冷たくなる。私の反応に、彼は絶望的な顔をして「すみません」と消え入りそうに呟いた。


「おまえ、なぜ――」

「っ……すみません、すみません……‼」


 男が玄関先に崩れ落ちる。額を地面にこすりつけ、彼は何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。落ちた涙と鼻水が、地面にいくつも点を打つ。


 私はただ、呆然と男を見下ろすしかできなかった。

 男がぐしゃぐしゃの顔を上げる。震える手で鞄を探り、彼は銃を取り出した。明らかに非合法の武器に、ぴんと警戒が張り詰める。しかし男は黙って首を振ると、それを私に差し出した。


「撃ってください」

「な……っ⁉」

「罰してください……お願いします」

「な、なにを言ってる! できるわけないだろう、私は警官で」

「あなたには理由があります!」


 引き攣った甲高い叫びに、びくり、と全身がこわばる。慌てて辺りを見回した。幸いにして、人が集まる気配はない。

 私はため息をつくと、跪く彼の肩に手を置いた。


「……とにかく。ここじゃ困る。入ってくれ」

「は、はい……」



 リビングに案内された彼は、オノと名乗った。彼はぐずぐずと鼻を啜りながら、訪問に至った経緯を訥々と語った。


 オノはもともと、あの少年グループの中で使い走り兼サンドバッグのポジションだったらしい。居たくて居た場所ではなかったのだという。

 愚かだったんです、と彼は言った。


「逃げ出すのが怖かった。それに、逃げたところで当てもない。大人は誰も助けてくれなかった。なんとか家から逃げてあそこに来た僕に、これ以上逃げる先なんかない。僕の居場所は、あそこ以外になかったんです」

「……」


 無言を貫く私に、オノはいびつな笑みを浮かべる。


「仕方ないと思ってました。犯罪の手伝いをするのも、動物にひどいことをするのも、追い出されないためにはしょうがないって。僕のせいじゃないんだって」


 でも、と続ける声が震えた。


「逮捕されて初めて、こんな僕を守ってくれる大人に出会って……自分のしたことを思い知ったんです」

「……そうか」


 ぽたぽたと、オノの頬を涙が伝い落ちる。ずっ、と鼻をすすって、彼は深々と頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。いくら謝罪しても、償い切れるものじゃない。失った命は戻ってきません。命を贖えるのは命だけだ。だから――」


 すっ、と彼が銃を差し出す。私の目元がかすかに歪んだ。


「撃ってください」

「無理を言うな。私はアンドロイドだ」

「確かに、アンドロイドに殺しは無理です。でも、痛めつけることはできるでしょう」


 ひどく昏い、思い詰めた目で見つめられ、ため息をつく。


「そういう問題ではない。そもそも私は警官だ。市民を傷付けることはできない」

「僕があなたに襲いかかれば、正当防衛になりますか」

「だから、そういう問題じゃ――」

「お願いします」


 オノがすっと床に跪いた。深々と頭を下げ、額を床に擦り付ける。

 制止しようと私が腰を浮かすより先に、彼が静かに顔を上げた。真っ暗い瞳がそこにあった。

 低い、押し殺した声でオノがささやく。


「どんな理由があろうと、傷付けた過去は消えません」

「っ……」

「耐えられないんです……苦しくてたまらない」


 涙で濡れたみじめな顔、その真ん中で、怖いほどの絶望を宿した目が、救いを求めて私を見つめていた。


 ――どんな理由があろうと、傷付けた過去は消えない。


 その言葉が、二重の意味をもって私に突き刺さった。桜色の瞳、その奥に宿る切々とした深い恋慕が蘇る。


 私はサクラを傷付けた。なにも知らないまま、正論だけをぶつけ続けて、彼女の心をずたずたにした。あの瞳によぎる知らない感情、その存在に気付いていたくせに、正体を確かめようともしなかった。


「ツバキさん」


 震え、掠れた、すがるような声。

 愕然と見上げてくる瞳の中に、私は私自身の姿を見た。


(あ――)


 この男は私と同じだ。

 傷付けた過去に耐えられず、贖罪を願っている。


 目の前に銃が差し出された。いかめしい金属は、かたかたと小刻みに震えていた。

 絶望的な眼差しが、必死に私にすがりついて、



「――たすけて」



 その瞬間、かちり、と自分の中でなにかが動いた。



(この男は弱者だ)

(傷付き、絶望して、救いを求めている)

(わたし、私は、アンドロイドとして、彼を――)



 身体が、勝手に動いていた。

 銃を受け取り、ローテーブルに置く。オノの表情が失望でぐしゃりと歪んだ。そっと首を左右に振る。私は静かに立ち上がった。


 ゆっくりと、オノの前に膝をつく。込み上げる慈悲に抗えない。胸の底がさっきからずっと、甘ったるい痺れで震えている。


(……なんて哀れな、弱い命)


 両腕を伸ばして、泣いているオノを抱きしめた。びくっ、と彼の身体が驚いたように硬直する。

 鼻先を髪に埋め、すうっ、と大きく息を吸った。くらくらするほどの多幸感を覚える。電脳の一番奥から込み上げる、麻薬のように甘い陶酔。


「……ずっと、苦しかったんだな。わかるよ」


 ささやくと、本能が満たされる強烈な快感が、全身を駆け巡った。

 ゆるゆるとオノの背を撫でる。あ、あ、と意味をなさない声が耳元で聞こえて、ひぐっ、とオノが喉を鳴らした。


「う、うぁ、うあぁぁああ……っ‼」


 私の胸に顔をうずめて、彼は泣きじゃくる。その髪をやわらかく梳いてやりながら、私は自分の深部から慈悲と愛情が溢れ出てくるのを、なすすべもなく感じていた。


 指先が、幸福な酩酊で震えている。痺れるほど気持ちよかった。


 涙まみれのオノが胸元から顔を上げる。ずび、と鼻をすする音。泣きすぎて痙攣のような呼吸。弱々しくも情けない、庇護を必要とする存在。慈しむべき弱いもの。愛おしくてたまらない。


 押し寄せる陶酔にうっとりと身を委ね、私は涙に濡れた男の頬に、そっとくちびるを寄せた――。

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