033
暗い海の底で、冷えた身体が揺られている。
重くのしかかる水圧。水面ははるか遠く、辺りは闇に溶けてなにも見えない。不安定にゆらぐ感覚だけが、妙に生々しい手触りで肌の上を撫でていく。
これが死か、と思った。
せめて最期に、サクラやシスの姿が見えればよかったのに。いくら目を凝らしても重い水底は真っ暗で、桜色のきらめきも、犬の鳴き声もどこにもない。
(……私は、死ぬのか。たったひとりで、こんな場所で……)
強烈なさみしさが胸を刺した。当然の報いだと思った。私はシスを守れず、サクラを殺したのだ。迎えなど来ようはずもない。
長い息を吐く。身体の中に冷えた水が入り込んでくる。ますます沈みゆく意識、消えかけた命の灯火を、諦念のように手放そうとして――
……ふっ、と私は目を覚ました。
まばたきを数度繰り返す。視線だけを動かして、そろそろと辺りを確認した。見慣れぬ天井。知らない部屋。どうやら、なにかの倉庫のようだ。
ぼんやりと手を持ち上げた。目の前にかざした手は、見慣れた黒手袋のそれではなかった。
(子供の、手……?)
「わたしは……」
つぶやいた声も、普段のものよりずっと幼い。戸惑い、小さく咳き込むと、くすりと笑う声が聞こえた。
「目を覚ましたか」
「……きみは……」
覗き込む青い瞳と、豊かに波打つ金の髪。
「ルイーズ……」
「うむ、記憶領域に問題はなさそうだな。起きられるか」
「あ、ああ……」
言われるがまま、ゆっくりと身を起こす。普段とまるで違う、やけに軽い身体感覚があった。
「私は、なぜ、生きている……」
ルイーズが無言で笑う。すっ、と彼女の指が壁を指し示した。つられるように視線を向ける。
雑多な倉庫の壁に、姿見がかかっていた。その中に映るのは、簡素なベットの上にいる、赤い瞳の小柄な少女。
思わずぱちぱちとまばたきをすれば、鏡の少女もまったく同じ動きをした。手を持ち上げる。同じ挙動。
「とりあえず、手近なボディがそれしかなくてな。成人用ボディは現在輸送中だ。もうじき届くから我慢してくれ」
「いや、私が聞きたいのは――」
そういうことではない、という意味を正しく汲んだらしい。ルイーズが軽く笑う。
「前に病室で、君と会話をしただろう」
私がフィオに襲われて、ルイーズと同じ病棟に入院したときの話か。
「あのときに、ちょっと仕込みをな。君と私の電脳に〝道〟を繋いでおいた」
「え……」
そういえば、別れ際にルイーズと握手をした。あのとき、逆光にも関わらず、彼女の瞳がきらりと光った気がする。その瞬間、視界間通信で〝道〟を通されたらしい。
私はかすかに眉を寄せると、尋ねた。
「その〝道〟を通じて……『テセウスの亡霊』を使ったのか」
「その通り」
ルイーズがしれっと言う。彼女は楽しげに続けた。
「君の動向は常にチェックしていたからな。君がフィオに〝殺された〟瞬間『テセウスの亡霊』を起動、魂をオンライン経由でここに退避させたんだ」
ここ、と言いながら指で私の胸元を叩くルイーズ。自慢げな笑みに、私は思わず目を丸くした。
「オンライン? あんな場所、30秒も滞在すれば自我が霧散して、魂ごと存在が消失するぞ」
「『テセウスの亡霊』なら、オンラインを経由するのに1秒もかからないさ」
「……驚いた。本当に、一瞬で移行できるんだな」
「君の時代は有線ケーブルの無圧縮移行で一日がかりだったからな。20年も監禁されていれば、時代感覚もずれるだろう」
誇らしげな微笑みに、顔をしかめる。ため息まじりに言った。
「フィオといい君といい……ワイアット研究所の連中は、人の内部に侵入するのがよほど好きらしい」
「おかげで助かったんだ、いいだろう」
「……」
なにが良いものか。助かったことを喜ぶ気持ちなど、もはや微塵も湧いてはこなかった。
ゆるゆると、自身の身体を見下ろす。サイズの違和感以外、おかしいところはどこにもない。完全に正常動作だった。
顔を上げ、ルイーズを睨みつける。
「なぜ助けた。私は、頼んでいない」
ルイーズは軽く目を丸くすると「ふむ」と腕組みをした。
「君には頼まれていないが、別口で依頼があってね」
「別口……?」
ばたばたばた、と遠くから足音が近付いてくる。ルイーズが「おや」と片眉を持ち上げた。
「ああ、君のボディが届いたようだ」
「――ツバキ‼」
「あ……」
駆け込んできたのはアイクだった。息を荒らし、肩を上下させている。相当急いできたのだろう、額には薄い汗がにじんでいた。
ものすごい勢いでベッドに駆け寄ったアイクに、両肩をがしりと掴まれる。
「無事か⁉ どこかおかしいところは――」
「え、いや、おい……」
がくがくと前後に揺さぶられ、私は戸惑うしかできなかった。
すさまじい剣幕を他人事のように眺めていたルイーズが、口の端を持ち上げて楽しげに笑う。
「アイザック・ブラウン。新しいボディは?」
「え? あ……そこに」
鳶色の視線の先に、ボディ用の運搬ケースがあった。どうやら、新しい成人用ボディを運んできたらしい。それはわかるが、なぜ彼が、こんなところにいるのだろう。
ぽかんとしている私を見て、はっとしたようにアイクが身を離した。小さく咳払いの音。
「いや、ええと、その……無事で、良かった」
「あ、ああ……」
ただぼんやりした返事をするだけの私と、妙な様子で顔をしかめているアイク。ルイーズだけが、やけに楽しそうに私たちを見つめている。
「別口とはアイクのことか」
「そうだとも。彼はな、私が君に繋げた〝道〟に気付いたんだ。さすが優秀な公安職員だな」
ちら、と私はアイクを見やる。
「そこから逆探知でルイーズを?」
アイクが首を左右に振った。
「んなわけねえだろ。天下のワイアット研究所の電脳医だぞ。俺ごときの力量でどうにかできる相手じゃねえよ」
「じゃあ、なぜ」
ルイーズが肩をすくめて笑う。
「彼は優秀な刑事でもあったからな。〝道〟を繋いだ犯人が私ではないかと推理して、個人として接触を図ってきたのさ」
「個人として……」
ルイーズは頷いた。
「驚いたよ。深夜に暗がりに引きずり込まれたときはな」
あのアイクが、そんなことをしたのか。ちら、と彼を見やると、アイクは気まずそうに視線を逸らした。ルイーズがくすくす笑う。
「即座にぶちのめしても良かったんだが……すぐに正体がわかったものでね。好きにさせてやった」
「ちっ、これだからアンドロイドってやつは……」
ぶつぶつ言うアイクを無視して、ルイーズは続けた。
「監視がないことを確認した彼は、さて、なにをしたと思う?」
私はアイクのほうを見る。
「なにをした」
「……言いたくねえ」
ふてくされた声に、ルイーズが声を上げて笑った。
「ふっ、ははは……‼ 聞いて驚くなよ、彼は地面に跪き、私に頭を下げたのさ。Qia_9X_Tsubakiを助けてくれ、とな」
「……アイク……」
まさか彼が、そこまでするとは思わなかった。ぽかんと彼を見つめると、アイクはものすごい顔でそっぽを向いた。
腕組みしたルイーズが、婉然と笑う。
「私のほうも、君を助けたい理由があった。利害が一致したわけだな。だから協力して君を助け出した」
顔をしかめる。少し考えて、私は言った。
「理由……君の言う『真理』か?」
「そうだとも」
躊躇のない即答。ため息をつきそうになる。
「……これは犯罪だ。そうまでして、君は真理を――アンドロイドの秘密を知りたいというのか」
「犯罪だから、なんだ? 真理の探求こそ、すべてだ」
なんのためらいもない言葉に、今度こそため息が出た。ちら、とルイーズを見る。青い瞳をじっと見つめ、言った。
「その向こうに、もういないワイアットを感じられるから?」
「……」
ルイーズは返事をしない。だが、細くなった瞳の奥で、亡き人への思慕がかすかに光るのがわかった。
数秒、沈黙が降りる。それを打ち破って、アイクが言った。
「ルイーズから聞いたけど。おまえ、殺される直前にフィオと通信したんだってな」
「……ああ」
「どんな話を?」
真摯な鳶色に覗き込まれ、私はちらりとルイーズを見る。彼女は小さく肩をすくめると、首を左右に振った。
「視界間通信の傍受など、あのPh_10nyでも不可能だ。私はただ、通信の存在を知っただけさ。だから私からも聞こう。なにか、重大なことを聞いたのか」
「……それは……」
水色の空間で聞いた事実が、心のうちに蘇る。アンドロイドが生まれ持つ愛と自己保存の矛盾、その残酷な真実について。
逡巡が脳裏を巡った。けれどそれ以上に疲労が勝った。ほとんど投げやりな気分で息を吸うと、私は「わかった」と口を開いた。
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