032

 どこまでも広がる水色の空間に、白い椅子が二脚。ただそれだけの、美しいが簡素な仮想世界。どうやら強制的に通信を開かれ、認知に入り込まれたらしい。


「なるほど。視界間通信なら、邪魔の入りようがないな。不躾な覗き屋も、ここに介入することはできない」

「……ええ」


 フィオが静かに頷いた。かた、と椅子を引いて、彼女はそこに腰掛ける。動作のたびに水色の床に波紋が広がるのが、現実離れして美しい。私もまた、向かいの椅子に腰を下ろした。


 背筋を伸ばし、問いかける。


「それで。何を話してくれるんだ?」

「そうね……昔話、かしら」


 そう言って、フィオはごくかすかに、笑った。さあっ、と澄んだ風が辺りを吹き抜ける。少し冷えた透明な温度が、美しい銀髪をさらさらと揺らした。

 水色の瞳が静かに伏せられる。淡い朱のくちびるが動いて、歌うように言葉が流れ出した。


「……少し昔、あるところに、アンドロイドと人間がいたわ。二人は出会って、親しくなって……当然のように惹かれ合った」


 それが誰を差しているか、わからないはずはない。私は黙ってフィオの続きを促した。

 諦念じみた目をして、フィオは続ける。


「人間は身体が弱かった。それを知ったアンドロイドは、人間を長生きさせたいと願うようになった。彼女の魂を、もっと丈夫で頑丈な肉体に、移し替えようと思ったのよ」

「『テセウスの亡霊』……」


 フィオがうなずく。


「一年前。アンドロイドの手によって『テセウスの亡霊』が公開された。最初のバージョンでは、まだアンドロイドたちの魂しか移行できなかった。そのせいかしらね。アンドロイドたちを人類と認めない人々が生まれて、世間は荒れてしまった」


 水色の瞳をそっと伏せて、彼女は言った。


「アンドロイドは焦ったわ。一刻も早く人間の魂をデータ化できるよう、必死で研究に没頭した」

「なぜだ? そんなことをすれば、世界は余計に――」

「アンドロイドにはそれがわからなかったの。彼女は善良さというものを、あまりにも素直に信じすぎていた。人はみな聡明で、未来はいつも明るいのだと、無条件に信じていた。アンドロイドも人間も、まったく等しく魂をデータ化できるようになれば、二種族の平等は明らかになる。そうすれば世間の反発は収まると思ったのよ」


 それはあまりに楽観的な理屈だ。だが、フィオは本気でそれを信じていたのだろう。アンドロイドは愛とともに生まれてくる。性善説が私たちの基本原理なのだ。


 フィオは静かに顔を曇らせると「だけどね」と続けた。


「アンドロイドが研究に没頭しているあいだ、人間の身体は少しずつ弱っていった。そしてある日、彼女はひとり、家で倒れてしまったの」


 たしかに、ミアはとても病弱だった。そうなっても不思議ではない。


「ちょうどその日、アップデート内容がまずすぎる、ということで、アンドロイドは左遷されたばかりだった。失意の中帰宅したアンドロイドは、人間が倒れているのを見つけて青ざめたわ。半狂乱で救急車を呼んだ」

「それは……そうだろうな」


 もし、帰宅したときにサクラが倒れていたら、私だって半狂乱になる。まともな判断すらできるか怪しいだろう。

 フィオはかすかに微笑むと、続けた。


「入院した人間は、自分のことよりアンドロイドを気にかけた。当然よね。だって彼女の恋人はもうずっと長い間、ひどい顔ばかりしていたのだから」

「そういうものなのか? 死にかけたのはミアだろう」

「そういうものでしょう、愛って」


 フィオはどこか寂しそうに微笑む。


「人間は言ったわ。『もういいの』って。彼女は続けた。『あなたが何に苦しんでいるか、私は知らない。でも、もう大きなものを背負うのはやめて。世界最高のアンドロイドとしてじゃない、ただのひとりの女性として、私はあなたに幸せでいてほしい』と」


 ミアらしい、と思った。私は彼女のことなど何も知らないのに、なぜだろう、ミアはそういう人物だったのだと、はっきり確信できた。

 フィオが小さくささやく。


「その言葉を聞いたアンドロイドは、人間の寿命を受け入れて、『テセウスの亡霊』のアップデートを断念した。これが……半年前の話よ」


 そうして、彼女は細いため息をついた。

 ゆっくりと、白い面が持ち上がる。水色の瞳でそっと私を見つめ、フィオは切り替えるように声の調子を変えた。


「それから二人は、表面上は穏やかな日々を過ごしたわ」

「表面上? 実際は違ったのか」


 フィオはただ黙って、痛みに耐えるように微笑んだ。


「人間のほうは、間違いなく穏やかだったわね。でも、アンドロイドのほうはそうじゃなかった。左遷先で〝植物の解析〟を始めたアンドロイドは、日に日に表情が暗くなり、思い詰めた目をするようになった。そして、解析で大きな成果を得てしまった日――アンドロイドは人間に告げたの」

「なにを」

「プロポーズよ」


 はっきりとフィオが言う。


「『ただのひとりの女性として、私に幸せでいてほしい。その言葉に嘘はない?』アンドロイドはそう尋ねた。もちろん、人間はうなずいたわ。それを聞いたアンドロイドは『結婚しよう』と彼女に言ったの。……ひどく昏い瞳でね」

「昏い、瞳……」


 ぽつり、とつぶやく私に、フィオは小さくうなずいた。


「そして事件が起こったわ。愛し合っていたはずの二人は殺し殺される関係となり、一人が死に、一人が生き残った。……許されざる罪人として、ね」

「なるほど……そしてそこから先が、私の知る物語、というわけか」

「ええ」


 その相槌を最後に、言葉が途切れ、沈黙が訪れる。考え込む私をよそに、フィオは遠くを見つめると、「……私」と小さくささやいた。


「収監されてからずっと、あなたのことを考えていた」

「私を?」


 うなずき。


「あなたの命の価値について……あなたは本当に死ぬべき命なのか。生きるべきではないのか。ずっと、そのことを考えていたわ」

「だから取引と称して、私の話を聞きたがったのか?」

「ええ。思い出にはその人の人格が宿る。あなたがどういう人か知るのに、一番いいと思ったの」


 なるほど、と思い、同時に皮肉な笑みが浮かぶ。私は腕組みをすると、口の端を軽く持ち上げた。


「それで、私は死ぬべきだと判断されたわけだ」

「っ……」


 小さく息を詰まらせ、フィオが黙り込む。じっとその様子を観察して、私は口を開いた。


「疑問に思うことがある。君は本当に、すべてを思い出したのか?」

「……」

「君の話には、重大な部分がいくつも欠けている。事件を起こした動機も、私の記憶をいじった理由も、どうやってミアを殺すことができたのか、その方法も」


 フィオは答えない。ただなにかに耐えるように黙り込んでいる。

 私は息を吸うと、思い切って言った。


「もしかして君は、記憶を取り戻してなどいないのでは?」

「っ……」

「君はワイアット研究所の尋問を受けていた。の過酷さは私もよく知っている。君は疲れ果て、追い詰められて、ただ現状から逃げ出すために、記憶が戻ったふりをしている……そうじゃないのか?」

「……」


 フィオはまだ答えない。じっと重い沈黙が、水色の仮想空間を満たしている。私は小さくため息を吐いた。


「まあ、それならそれで構わないが――」

「……違うわ」

「え?」


 消え入りそうな返答。フィオは思い詰めた目のまま、ぎゅっ、と膝の上で両手を握りしめた。


「私は、なにひとつ失ってなどいない。記憶が戻ったと告げたのは、ただ――気付いてしまったからよ」

「気付いた? なにを……」

「すべてに」

「すべて、って……まさか、アンドロイドが人を殺せた理由もか?」


 フィオが静かに頷く。その瞬間、私は椅子を蹴って立ち上がっていた。水色の空間すべてに響き渡るくらいの声で、叫ぶ。


「教えてくれ‼ なぜアンドロイドが人を殺せたんだ! 私はなぜ、サクラを――」

「ツバキ」


 水色の瞳が、すうっと持ち上がって私を見つめた。愛と痛みと切なさと、深い絶望を抱えた、あの目。

 フィオのくちびるが動く。


「ひとつ質問するわ。あなた、サクラさんを愛していた?」

「ああ」


 即答だった。絶対に断言できる。恋でこそなかったが、私は間違いなくサクラを愛していた。

 フィオが続ける。


「誰よりも?」

「もちろんだ」

「命をかけてもいいくらい?」

「そうだ」

「じゃあ、もし、彼女があなたの前からいなくなったら?」

「シスもサクラもいない? そんな世界で、私が生きていけるわけ――」


 そこまで言って、はっとした。

 じわじわと、私の思考が、なにかに思い至っていく。断片的だったピースが、ゆっくりとはまっていく。



 正当防衛なら、アンドロイドは人を殺せる。

 そしてサクラがいなければ、私は生きていけない。

 それはまさにの意味だ。

 アンドロイドの死因で最も多いのは〝精神的苦痛〟。

 彼女の存在は、本当に、私の生死を左右する。



「まさか……」


 フィオが静かに微笑む。


「サクラは、私の命を脅かす〝圧倒的な強者〟だった……」


 呆然とつぶやく私を見て、フィオがすうっと立ち上がった。細い人影が、ゆっくりと水色の空間を歩いて近付いてくる。足跡のように波紋が広がり、波打つ水面が美しい光を放った。


 すぐ目の前で、フィオが立ち止まる。私の耳に顔を寄せ、澄んだ声が、静かにささやいた。




「アンドロイドは、生まれついた機能として……

 ――もっとも愛した人だけは、殺すことができるのよ」




(ッ……‼)


 愕然とする。

 馬鹿みたいに目を見開く私を、フィオは淡々と見下ろしていた。


 白い指が、すっと私の顎にかかる。くい、と顎を持ち上げられ、水色の瞳が、静かに私を見つめるのがわかった。


 完全に表情をなくしているフィオ。その背後で、なにかきらきらしたものが光って――


「あ――ッ」


 無数の光が、私の全身に突き刺さった。


 なにかが、私の中に流れ込んでくる。異様な光を放つそれは、私の深部にはっきりと刻みつけられ、どくん、と不気味な挙動をはじめた。ぐら、とひどい眩暈が襲ってくる。がくり、とその場に膝をついた。


「ッ……私に、なにを、打ち込んだ――」

「万が一、あなたの死体が解析されたときのためのものよ」

「な……っ」


 フィオの水色が、シンとした静謐を宿して私を見つめている。表情のない、美しく端正な顔が、押し殺したようにささやいた。


「これで謎は謎のまま、世界はすべて元通りになる」

「フィ、オ……」


 水色の空間が、ぶわり、と一気に薄れていく。戻ってくる現実の、あの真っ白いモニター室の気配。


 フィオの細い手が、私のこめかみにまとわりつく。水色の眼差しが、私のそれと交差する。一瞬で強烈な力が頭部にかかり、みしり、と軋む嫌な音。


 あっ、と思う間もなかった。

 頭蓋が砕かれる、ひどくなまなましい感覚が訪れて――



「――さようなら、ツバキ」



 その瞬間、私の命は暗転した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る