第3章
014
その部屋には、やわらかな気配がまだほのかに残っていた。
あたたかみのある木目調の家具が、バランス良く配置されている。カーテンやクッションなどのファブリックは暖色で統一され、ほっとするような印象を感じさせた。窓際の鉢植えに咲いた花が、ほのかな香りを漂わせている。
「……なんか、えらい予想と違う家だなあ」
鳶色の瞳を細め、アイクが室内を見渡した。「ああ」と頷く。ぬくもりと生活感の残る部屋、その中央に歩み出て、私は目元に力を込めた。視界の隅に、記録開始を告げる赤色が明滅する。
「記録者、ツバキ・ワイアット。これより、捜査を開始する」
黒手袋をきゅっと整え直し、私とアイクは部屋の中央に歩み出た。
ここはフィオとミアが暮らしていた、マンションの一室だ。事件から一週間以上経っているため、すでに本格的な家宅捜索は終了していた。記録媒体や本などの押収品はすべて持ち出されており、棚やチェストはがらんとしている。
本当は、聴取チームの私たちにここに来る理由などなかった。ただ、私にはどうしても、フィオとミアの関係が気にかかったのだ。
ミアがどうかはわからないが、少なくともフィオは、ミアを愛していたと述べている。それなのに彼女を殺害したということは、なにか抜き差しならぬ事情があったはずだ。
ミア・アンジェリコという人物について、そして二人の関係について調べるため、フィオの自宅の捜査を申し出たとき、ボスはいい顔をしなかった。当然だ。警察が知りたいのは『アンドロイドが人間を殺害できた方法』であって、Ph_10ny個人の動機ではないのだから。
それでも強引に捜査権をもぎ取って訪れたマンションは、あのPh_10nyの家とはとても思えない、ありふれた一室だった。
築年数12年、子供のいない家族向けの、シンプルで小さなLDK。ごく普通の、平和な生活の残り香は、どこか懐かしい感じがした。
(……昔住んでいた家に、少しだけ似ている……)
サクラやシスと暮らした、あの家。間取りや家具の感じはまるで違っていたが、部屋の大きさや漂う空気のあたたかさが、どことなく似ていた。
鍵を開けてくれた管理人が見守る中、私とアイクは室内を歩いて回る。具体的になにかを探すというよりは、ふたりの生活の雰囲気を感じるための捜査だった。
色違いのスリッパ、おそろいのティーカップ、旅行の記念だろう地方の工芸品に、前撮りの結婚写真。
室内にあふれているのは、ただのありふれた、穏やかな生活の残滓だった。まごうことなき幸福がそこにあった。
かたり、と写真立てを手に取る。真っ白いドレスを身にまとった二人は、頬を染めて嬉しそうに身を寄せ合っていた。きらきらとした笑顔は輝かんばかりで、どんな宝石よりも美しく見える。
(二人とも、こんなに幸せそうに笑うのに……)
写真の中のミアは、翡翠色の瞳をした、やわらかく笑う人だった。殺されてしかるべき人物には、とても見えなかった。
胸のうちでフィオに問いかける。どうして君は、この人を殺してしまったんだ。答えはもちろん、返ってこない。
とん、と肩に手が乗った。背後から、アイクの静かな声がする。
「なあツバキ。あんまり入れあげすぎるなよ」
「……入れあげてなんかない」
「なら、いいけどさ」
まるで信じていない口ぶりだ。私は小さくため息をつくと、写真立てをそっと飾り棚に戻した。捜査に戻る。
室内を見て回りながら、私はドアのところで待機している管理人に問いかけた。
「二人の暮らしぶりについて、なにか知っていることは?」
「なにか、と言われましても……ごく普通の、幸せそうなカップルでしたよ」
初老の女性はそう言うと、両手をぎゅっと握りしめる。さらに尋ねた。
「近所からの評判は?」
「良かったと思いますけどねえ……ゴミの管理もきちんとしていたし、特にミアさんの方は、いつもにこやかで、挨拶が丁寧で。フィオさんはほら、とても忙しい方だったから。マンションまわりの細々したことは、全部ミアさんが前に出てやっていましたね」
「なるほど……」
考え込む私の横で、アイクが問う。
「では、ミア・アンジェリコはどういう人物だったんですか?」
「どういう、と言われましても……」
管理人は白髪交じりの髪を指先でいじると、考え込むように首を傾げた。
「……本当に、普通の人ですよ。素直で純朴な、優しい人でした。ときどき、旅行のお土産やら、余った果物やら、いろいろ持ってきてくれてねえ。管理人室でお茶をしたこともありましたっけ」
「交流があったんですね」
「はっきり親しいって言えるほどじゃなかったですけど。あくまでも、居住者と管理人ですから」
「わかります」
「普通の、いい人だったんですよ。昔から病弱だったみたいでね。あまり長生きはできないだろうってことで、親御さんにずいぶん大切に育てられたんですって。世間の汚いところに、あんまり触れずに生きてきたんでしょうねえ。素直な、優しい人で……たしかこんなことを言ってました」
そう言うと、管理人はミアの言葉を思い出すような目をした。
「こんな身体の私を、なぜか彼女は選んでくれた。ちっぽけで平凡なあの病室に、フィオが新しい風を吹かせてくれた、と……」
「そうか……」
「ああ、でも――」
管理人が遠くを見るような瞳をする。視線だけで続きを促すと、彼女は小さな声で、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、あのPh_10nyのお嫁さんだけあってね。芯の強い女性でしたよ。こんなご時世に、世界最高のアンドロイドと人間が結婚するなんて大変でしょう、って言ったらね……」
――ううん。私、フィオが大好きなの。
彼女のためなら、なんでもできる。どんなことだって平気。
「あの緑の瞳を、それは優しい形に細めてね……すごく嬉しそうに笑うんですよ。ああ、世間がなんと言ったって、この二人ならきっと大丈夫だって、心から思ったものです。それなのに、こんな……」
語尾が震え、彼女はそっと顔を覆う。私はアイクと顔を見合わせた。
やはり彼女たちの間に、亀裂や歪みなど感じられない。フィオはミアを愛していたと言ったが、ミアもまた、フィオを強く愛していたように思えた。
ずっ、と涙混じりに鼻をすする音がして、管理人の目に涙がにじむ。アイクがうろたえたように彼女に歩み寄ろうと重心を移した、その瞬間――
――ぎらり、と窓の外が不自然に光った。
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