024
ぼんやりと、誰もいなくなったドアを見つめる。しばらく、何も考えずにそうしていた。
すらり、と白い扉が開く。現れたのはアイクではなかった。
「――やあ。ご機嫌はいかがかな」
「あなたは……」
豊かに波打つ金髪。青い瞳。くちびるに化粧こそなかったが、見覚えのあるその姿は、電脳医ルイーズのものだった。
ルイーズは軽く笑うと、猫のようにするりと病室に忍び込んできた。ベッド脇の椅子に腰掛ける。
「同じ病棟に入院していると聞いてな。見舞いだ」
そう語るルイーズは白衣ではなかった。淡い緑の入院着をまとっている。
「わざわざ、すまない。あれから具合はどうだ?」
「問題ない。こいつがいい仕事をしてくれてね」
きらり、とルイーズの小指でストレス管理リングが光った。
「緊急用のソフトを入れてくれたと聞いた。感謝するよ」
「礼には及ばない。後遺症がないならなによりだ」
見たところ、表情や動作にも違和感はない。どこも異常はなさそうだ。
ルイーズが笑って頷いた。
「ツバキ。君はどうしてここに?」
「……フィオに襲撃された」
ぽつりと言う。ルイーズが思い切り目を丸くした。
「それはそれは。よく命が助かったな」
「本気じゃなかったんだろう」
「しかし、ふうん。フィオが、君を」
「なんだ?」
思わせぶりな台詞に眉をひそめる。ルイーズは考え込むように顎に手を当てて、ちら、と私を見た。
「正直なところ、私は君を信用していない。だが同時に、君は信頼に値するとも思う」
「どういうことだ?」
意味がわからない。
ルイーズはただ笑うだけだった。ちかちかっ、と青い瞳が小さくまたたく。研究所で監視を確認したときと同じ仕草をして、彼女はそっと私に身を寄せた。
「……転属後のフィオの動向を、私はまったく知らない。だから知っていることだけ話す」
ぴりっ、と神経が張り詰める。「情報提供ということか」とささやくと、ルイーズは静かにうなずいた。
「事件前夜、フィオは研究所に侵入している」
「……侵入? 普通に入ったんじゃないのか」
「ご丁寧にログを消していったんだ。普通の〝出社〟じゃない。私以外、痕跡に気付いた者はいないだろう」
「研究所でなにをしていたか、わかるか」
「そこまでは。ただ、彼女が通ったルートなら把握している」
「どこに向かったんだ」
「実験用資材管理課の温室、園芸用具の倉庫。彼女はなぜか二時間もそこに滞在している」
「ただの倉庫に、二時間も……?」
明らかに、なにかある。
フィオの言葉を思い出した。実験用資材管理課で、フィオは『重要な資材』を管理している、と。資材は機密に関わるものだ、と言った。そして、あの課には秘密がある、とも言ったのだ。
「その用具倉庫に、資材管理課の秘密が……?」
「ああ。詳しく調べようとしたんだが、異常なまでにガードが固く、できなかった。なにかあるのは間違いないだろう」
「そうか……感謝する」
ほっと息を吐いて、つぶやく。ルイーズはかすかに目を細めて、首を横に振った。青い瞳が、そっと病室を見回す。白い指が、ベッド脇のネームプレートをゆるく撫でた。
「ここに来て、わかった。君はたしかにあの人の名を汚したが、そこに悪意はなかったのだと」
「どういう意味だ?」
ルイーズは答えない。ただ黙って立ち上がると、シャッ、と病室のカーテンを開け放った。春のまばゆい日差しが差し込み、中庭にぽつぽつと並ぶ桜が見える。
逆光を背負って、ルイーズが振り返った。
「君に会えてよかった。……頑張ってくれよ」
すっ、と手を差し出される。困惑のまま握り返すと、細い指がそっと私を握りしめた。窓の外で、ぶわりと大きく風が吹く。薄紅の花びらが舞い散って、逆光を背負ったルイーズの金髪と青い瞳が、きらきらと光るのが美しかった。
白い指先が、そっと離れていく。ルイーズはゆったりと微笑むと「君の相棒に見つかったら面倒だからな」とささやき、隠れるように病室を出ていった。
残された私は、ひとりベッドで考えた。
実験用資材管理課、その秘密は用具倉庫の中にある。おそらくだが、フィオは『重要な資材』を確認しに行ったのではないだろうか。
結婚式、ひいてはあの事件の前夜に、わざわざ確認した『重要な資材』。
(もしかして――それこそが、ミアの義体だった?)
なにしろ、ワイアット研究所にはミアの義体を隠す理由がある。
実験用資材管理課では、Ph_10nyの頭脳を必要とするような、特殊な研究が行われていたはずだ。ワイアット研究所にとって、フィオは必要不可欠な存在だった。その頭脳を得る代わりに、ミアを匿う取引があっても不思議ではない。
また、ワイアット研究所にとって、人間の魂がデータ化できることは絶対の秘密だ。『テセウスの亡霊』によってアンドロイド化したミアの存在は、その象徴といっていい。タムラ所長たちは匿ったミアの存在を必死になって隠すだろう。それこそ、警察内部に入り込み、フィオの『口止め』を試みるほどには。
(そういうことか……)
通信状況を確認し、私は即座にボスに連絡を取った。
『――どうした』
「フィオの事件について、情報提供がありました」
言った瞬間、ボスが黙り込む。わずかな沈黙ののち、ボスは冷えた声で言った。
『その件はすでに我々の管轄外だ。余計な手出しをするな』
「信頼できる筋からの有力な情報です! せめて話を聞くだけでも……!」
『手出しをするな、と言っている。この件に関して、おまえにできることはない』
「この事件には絶対に裏があるんです! お願いします、ワイアット研究所の強制捜査を――」
その瞬間、ブツッ、と通信が断ち切られた。枕元のディスプレイも消えている。ボスが切ったのではない。部屋の電波をまるごと遮断されたのだ。
ゆるゆると顔を上げる。病室の入り口には、苛立ちを隠しきれないアイクが肩を怒らせて立っていた。
「……なにやってんだ、おまえ」
「それはこちらの台詞だ。勝手に電波を遮断するな! もう一度――」
「やめろ」
「やめてたまるか! くそっ、せっかく情報を得たのに……いっそ一人で研究所に忍び込んで」
「――ツバキ‼」
耳に刺さるほどの声で名を呼ばれ、きっ、とアイクを睨み返す。
鳶色の目が、燃えるように私を睨んでいた。アイクはいつものように手で私の背を叩こうとして、けれど、その手は黙って下げられる。
ぐっ、とアイクの両手が肩を掴んだ。長く、深いため息が聞こえる。うなだれたアイクは「頼む」と低く言った。
「頭を冷やしてくれ。俺たちにできることは、もうないんだ。俺は、おまえが処分されるのは、見たくない」
「……っ」
切々とした、真に迫った声だった。それ以上なにも言えなくなる。
黙り込んだ私に、アイクはゆっくりと顔を上げた。よくわからない感情で、かすかに歪んだ鳶色の瞳。
「……警察寮、帰るぞ」
それだけを呟くと、彼は私の胸元に荷物を押し付けた。
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