023

 気が付いたときには、病院だった。


 何度か目をしばたたかせ、真っ白い天井を見上げる。頭にかすかな違和感を覚え、私はゆっくりとこめかみに手をやった。


(痛くない……)


 あれだけ絞め上げられたはずの頭部は、治療の違和感こそ残っていたが、後遺症もなく無事だった。どうやら、手加減されていたらしい。


 しかし、床に叩きつけられた左半身はそうはいかなかった。特に手首の痛みが激しい。持ち上げた左手には、包帯が指先までぐるぐるに巻かれていた。


「――よお。お目覚めか、相棒」


 コンコン、と壁を叩く音にはっとする。横たわったまま視線を動かすと、渋い顔のアイクが部屋に入ってきたところだった。


「おまえ、まる二日も寝てたんだぜ」

「そんなに……」


 つぶやいた声はかすかに掠れていた。小さく咳き込んで、身を起こそうとする。歩み寄ってきたアイクが、すっと背中に手を添えて、当たり前のように私を助け起こした。

 椅子に腰掛けて、鳶色の瞳がふっと苦笑を浮かべる。


「わりと危なかったんだぞ? 助けた俺に感謝しろよな」


 目の前のアイクを見つめ返して、私はぱちぱちとまばたきを繰り返した。

 いつもとなにも変わらぬ態度、その裏に、やわらかな気遣いを感じる。じわり、と胸の底があたたかくなった。孤独に堪えた心に、優しさがひどく沁みた。


「ああ。本当に……ありがとう。助かった」

「っ……」


 礼の言葉に、なぜかアイクは気まずそうに黙り込む。眉を寄せ、彼は苦い笑みを押し殺した。


「アイク?」

「ああ、いや……まあ、間に合ってよかったな、と思ってさ」


 フィオを蹴り飛ばしたときのことを言っているのだろう。アイクはかすかに俯いて、言った。


「あのままだったら、おまえ、脳を潰されて死んでただろうし。命があるうちに飛び込めてよかったよ」

「……ああ」


 口先では同意しつつ、そうだろうか、と思う。

 あのとき、フィオは泣いていた。ぐしゃぐしゃに歪んだ泣き顔と、頬に当たる冷えた涙の感触を、まだ忘れることができない。


(彼女に、私を殺す気はあったのだろうか……)


 考え込む私のそばで、アイクは黙ってじっとしている。彼が立ち上げた枕元のディスプレイで時刻を確認すると、当たり前のように出勤中の時間だった。


「そうだ、捜査状況はどうなっている? ミア・アンジェリコの居場所は掴めたのか?」

「それは……」

「絶対に、どこかに監禁されているはずなんだ。彼女は肉体を奪われた被害者だ。一刻も早く救助してやらなければ――」

「ツバキ」


 息巻く私を止めたのは、こわばったアイクの声だった。顔を上げる。アイクは顔をしかめ、小さく息を吸うと、淡々と言った。


「Ph_10nyの身柄は、正式にワイアット研究所に移された。もう、警察がこの事件に関与することはない」

「なっ……!」


 絶句する。アイクは感情を堪えた目で私を見た。


「そもそも、このレベルの事件に、一国の警察ごときが介入できたことがおかしかったんだ。本来あるべき姿に戻っただけさ」

「そんな……」


 呆然とする私の耳に、ふと明るい音楽が届いた。枕元のディスプレイ、昼のニュース番組。

 アイクが黙って画面に目をやった。私も、つられてそちらを見る。


 そこには、荒れ果てた街があった。反アンドロイド派の襲撃で、公共交通機関が狙われたらしい。もはや彼らの標的はアンドロイド以外にも及んでおり、アンドロイドを受け入れた社会そのものが憎悪の対象となっていた。


「なっ……たった二日だぞ……? いつの間に、ここまで……」

「状況が転がり落ちるのなんて、二日もあれば十分だ。見ろ」


 ディスプレイの中には、髪を掴まれ、地面を引きずられていくアンドロイドがいる。被害者の瞳は理不尽への絶望と、愛する人間たちに虐げられる悲しみでいっぱいで、小指のリングが異常な明滅を繰り返していた。ずきり、と胸が痛んだ。

 アイクが言う。


「国によっちゃ、もう無差別な虐殺が始まってるってよ。こんな状況で、ただの刑事に何ができる? 俺たちの仕事は終わったんだ」

「でも、それでも、私は……!」


 フィオの瞳が思い出された。常に穏やかで礼儀正しく、慈悲さえ見て取れるのに、心の奥底だけは覗かせてはくれなかった、あの美しい水色。つい二日前まで、手を伸ばせば触れられる場所に、彼女がいた。私にはきっと、もっとできることがあったはずなのだ。


「っ……」


 ぐっ、と両手を握りしめた。包帯を巻かれた左手が、ずきり、と痛みを訴える。それでも構わず握り込んでいると、すっ、とアイクが手を重ねてきた。


 きつく握った拳を、無言でそっと解かれる。「怪我」と一言だけたしなめられ、私は軽くそっぽを向いた。アイクが苦笑する気配。


「なんだかな……おまえ、どうにも放っておけねえんだよな」


 とんとん、と手の甲を軽く叩かれて、胸の底がじくりと痛む。


 ――あなたのこと、少しずつわかってきたわ。

 ――なんていうか、放っておけない感じがする。


 気が付けば、つい口を開いていた。


「……同じことを、フィオにも言われた」

「ああ、そりゃ……嫌になるほど、見る目のある女だよ」


 視界の隅で、アイクががしがし頭をかく。ふーっ、と長いため息が聞こえてきた。

 ゆっくりと、彼の頭が俯いていく。肩を落とし、うなだれて、見慣れた鳶色のつむじから、絞り出すような声がした。


「ほんっと……どうしたいんだろうな、俺は……」

「アイク?」


 返事はない。アイクは数秒そうしていたかと思うと、すっと顔を上げた。苦笑交じりに首を振る仕草。


「待ってろ。退院手続きしてくる」

「え? ああ……」


 首を傾げる私をよそに、アイクは病室を出ていった。

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