022

 ミア・アンジェリコに対する捜査方針の変更は、スムーズに、とはいかなかった。それでもアイクはよくやってくれたようで、長い会議のすえ、共犯説と被害者説、両方からアプローチする、という方針になったらしい。


 とはいえ、私の立場は変わらなかった。

 フィオの取調官。たったひとりのポジションは、私をますます孤独にした。


 他の者がミア捜索に動く中、私はただ、無言を貫くフィオと向き合って、なんの証言も得られなかったと報告を続けるだけなのだ。貢献できない自分への不甲斐なさと、もはや隠されることもなくなった疎外の苦しさに、私の精神はじりじりと削れていった。


 今日もまたフィオの尋問を終え、オフィスに戻る廊下を歩く。成果は変わらずゼロのままだ。もどかしさと無力感に耐えながら、私はくちびるをきつく引き結んだ。


 署内はひどく慌ただしい。視界の隅には、出動命令の通知がいくつも瞬いていた。暴動の鎮圧だろう。だが、大規模なテロでもない限り、今日も私は蚊帳の外だ。


(……腐るな。私は、私にできることをするしかない)


 それが、刑事としての私の職務だ。言い聞かせ、歩みを早める。

 ふと背後から、車輪のゴムがこすれるような、聞き慣れぬ音がした。ちらと振り返れば、曲がり角の向こうから集団が現れる。


 彼らは大きなケースを載せた台車を押していた。車輪の音はそのせいだろう。それはいい。だが――


「……タムラ所長?」


 集団は白衣を着ていた。先頭に立つのは間違いない、あのタムラ所長だ。そして彼らがやってきたのは、さっき私が後にした、フィオの取調室がある方向だった。


(まさか――)


 嫌な予感が込み上げる。弾かれたように身を翻した。集団の横を駆け抜けて、角を曲がり、さっき歩いてきた廊下を逆走する。みるみる近づくドアに飛びつき、私は取調室に駆け込んだ。


 ばん、と開いたドアの向こう、小さな机の前に、フィオがぽつんと座っている。その姿を見て、私は大きく目を見開いた。


 車椅子の――拘束具が外れている。すべて。


 フィオの四肢は完全に自由だった。監視、記録されている様子もない。それどころか、ここには見張りの一人さえいなかった。いくらダミーボディでの逃走は困難とはいえ、異常すぎる。

 はあっ、はあっ、と肩で息をして、私はフィオを睨みつけた。


「……なにをしている」

「!」


 びくっ、とフィオが顔を上げる。

 その瞳が私を捉えた瞬間、美しい水色の奥に、はっきりと絶望の色がこみ上げた。蒼白な表情が、呆然と私を見つめる。


「拘束を解く許可など、した覚えはないが?」


 できるだけ淡々と言った。フィオはくちびるをわななかせ、目をいっぱいに見開いて、信じられない、という風に私を見つめている。真っ白になったくちびるが、震える声でつぶやいた。


「どうして、戻って……」

「ワイアット研究所の連中を見かけてな。怪しいと思ったら、予想通りだ。なぜ拘束を解かれている。どんな取引をした」

「っ……」


 フィオの表情がみるみる歪んでいく。けれどその瞳はまったく逸らされることなく、縫い留められたように私を捉えていた。


「……早すぎるわ……私、まだ……」


 掠れて震えた声は深い絶望に彩られ、水色の瞳には、見たことがないほど昏い感情が宿っている。

 私は短い息を吐き捨て、低く言った。


「どんな取引をしたか知らんが、逃げたところで無駄だ。我々はかならず、おまえを追い詰める」

「逃げる……」


 ぽつり、とフィオがささやく。その口元がいびつに歪んで、彼女は静かに首を振った。


「私は逃げない」

「逃走犯は皆そう言う」

「逃げないわ。どこへ行ったって同じだもの」

「同じ?」


 フィオが頷く。暗く歪んだ笑みをうっすらと浮かべて、フィオは静かにささやいた。


「私にはもう、なにも残っていない。逃げたって……無意味よ」

「……本当に、そうか?」


 押し殺した問いかけに、フィオは応えない。いつまでも無言を貫いている。はっきりした拒絶の態度。


(っ……)


 ここ数日で思い知った疎外感が、急に胸に押し寄せてきた。

 なにを聞いても答えない同僚たち。信頼していると言いながら、一向に私を捜査に加えないボス。この数日、いくら尋問を重ねても一言も口を開かなかったくせに、研究所とはまともに取引をしていたフィオ。


(……くそっ、なんで……!)


 事態が動くのは、いつも私の知らないところだ。私がしたのは、なにも語らないフィオの前に、ただ座っているだけ。

 眉が寄り、目元が歪んだ。引き結んだ口元を強引に開いて、私は低い声を絞り出す。


「ミア・アンジェリコの命は――まだ、残っているはずだ」

「――ッ‼」


 フィオが息を詰まらせる、ひくっ、という音がした。絶句する彼女に、私は押し殺した息を吐く。


(もう……いい。どうでも)


「……我々にはわかっているんだ。君がミア・アンジェリコの魂を抜き出し、別の義体に避難させたことは」

「それ、は――」


 美しい水色の瞳を、私は自暴自棄な気持ちで見つめた。

 フィオの事件は機密まみれで、捜査状況は絶対の極秘事項だ。許可もないのに被疑者本人にそれをべらべら話すなど、背任行為とみなされ、首が飛んでもおかしくない。それでも、止められなかった。


「ミアを長生きさせたかったんだろう? それで、彼女の意志を無視して『テセウスの亡霊』によるアンドロイド化を行った。なにも知らないミアは今、どこかに監禁されている」


 ささくれだった心が、私の口を不要なまでに軽くする。

 ワイアット研究所の人々がここまで入り込んだのも、フィオの拘束が外れているのも、警察側の許可がなくてはできないことだ。私はフィオの取調官のはずなのに、そのことを知らされなかった。


 それどころか、私はミアの捜索状況も、聞き込みや現場捜査が今どこまで進展しているのかも、なにひとつ知らない。いくら無能扱いで疎外されていても、こんなことをされてはたまらない。


「君は愛した人を殺したんじゃない。その逆だ。君の婚約者は、まだどこかで生きている。そうだろう?」


 ひとりでに動くくちびるを制御できない。虚しくてたまらない。

 思えば、私が知る情報は、いつもアイクを介してのものだった。捜査会議すら、初回のあれ以降参加を許されていない。私に直接伝えられたものなど、ほとんどなかったのだ。


 こみ上げる無力感に、くちびるを噛みしめた。じっとフィオの目を見る。やけになって暴露した捜査上の秘密に、彼女はゆるゆると首を振った。


「違う……私の愛した人は、あの日、あの式場で、間違いなく死んだ……私には、本当になにも……」

「御託はいい。ミア・アンジェリコはどこだ!」

「……っ!」


 ぴしゃりと怒鳴りつける。ミアの肩がぴくりと揺れた。目元を引き締め、私は笑う。


「さあ、取引だ。どんな記憶がお望みだ? 今なら、どんな恥部も白状してやるぞ」


 浮かべた笑みは、自暴自棄を隠しきれず、歪んでいた。フィオはかすかに痛ましい表情をすると、すっと目を逸らす。シンとした声が、言った。


「いらないわ」

「……なに?」

「いらない、と言ったの。あなたから得られるものは、もう何もない。あなたとの取引は――おしまいよ」

「ッ……」


 わけのわからないショックを覚える。思わず、すがるような声が出ていた。


「なぜ? 君は、知りたいことを手に入れたのか? いつの間に……」

「答える義務はないわ。それに、どうせ今のあなたからは、これ以上のものは引き出せないもの」

「私の記憶が戻らないからか。そうだ、それなら、私自身の電脳に電子尋問をかけて――」

「やめて。自分の痛みを粗末に扱わないでって、言ったでしょう」

「――だが!」

「ツバキ」


 澄んだ声が、はっきりと私を呼ぶ。私は途方に暮れて、ただ呆然とフィオを見つめるしかできなかった。


 しんとした取調室に、フィオと私の呼吸音だけが、淡々と響き渡っている。廊下は不自然なほど静かで、こんな事態だというのに、誰ひとり警官はやってこない。

 長い、長い沈黙を破って、フィオがぽつりとつぶやいた。


「ただ――わかったのよ」


 ゆっくりと、白い顔が持ち上がって、水色の瞳が、私を。



「――真実なんか、もう、なんの意味もないって」



 フィオの上体が揺らめいた、と思った瞬間、

 ――右の頭部に、ゴッ、と重い衝撃が走っていた。


「っ、ぐ……⁉」


 ちかちか瞬く視界が、ぐわん、と大きく回転する。床が急速に近付いてくる。とっさに突いた手首が不自然な角度で曲がって、ぎくりと鋭い痛みが走った。


 左半身から、思い切り床に倒れ込む。腹の上になにかが乗り上げる感触。細い指がこめかみにまとわりつき、狭まる輪。ぎりぎりと絞めあげられ、意識が遠のいていく。


 ぶわっ、と頭が白くなり、視界が明滅して――見えるのは、すぐ目の前でまたたく、美しい水色だった。フィオ。


「ッ……な、ぜ――」


 ――いつの間に、元の身体に、戻って。


 蘇るのは白衣の集団だ。彼らは巨大なケースを押していた。そう、まるで、アンドロイドのボディ一体分が、すっぽり収まるくらいの――


(まさか、あれの中に――)


 馬乗りになったフィオの手が、私の頭蓋を締め付ける。みし、と嫌な音がした。けたたましいアラートが電脳内に鳴り響く。大量の警告表示。


 急速に薄くなる意識を、必死に保とうとする。身を捩り、手をばたつかせ、もがく。ありったけの救援要請を送るが、誰も来ない。


(なぜ、どうして、誰か、なぜ、だれも――)


 どんなに助けを呼んでも、なにも起こらない。人ひとり現れない。返答すらない。こんなのはおかしい。いくら私が疎外されていても、こんなことはありえない。


 そう――


(私は……嵌められたのか……なぜ……)


 絶望で頭が真っ白になった。なぜ、どうして、と疑問が頭を埋め尽くす。

 そのとき、ぱたぱたっ、と頬になにか冷たいものが落ちた。掠れきった意識のまま、懸命に目を凝らす。


 フィオは――顔を歪めて、泣いていた。


 私の上にまたがって、ぎりぎり頭を締めながら、美しい顔をぐしゃぐしゃにして、フィオは子供のように泣いている。


(なぜ……君が……?)


 ふと思う。Ph_10nyの腕力なら、私の頭蓋など一瞬で砕けるはずだ。それなのになぜ、私はまだ生きていて、彼女はこんな、じわじわと殺すような真似を――



「ッ――なにやってんだ‼」



 ガンッ、と凄まじい音。

 頭部の絞め付けがふっと消えた。目の前のフィオも消えた。天井が、生理的な涙でぼやけている。


 おそらくはフィオを蹴り飛ばした誰かが、どこかと通信しているらしい。聞き覚えのある声が、切羽詰まったように怒鳴っていた。


「――はァ⁉ 馬鹿野郎! 俺は聞いてねえぞ!」


(……アイ、ク……)


 声の主を悟った瞬間、どっ、と安堵で全身の力が抜ける。意識が急速に白くなる。不気味な、独特の浮遊感。ぐっと抱き起こされ、眩暈の感覚がひどくなる。


「――おい! おいツバキ! しっかりしろ‼ おいッ‼」


(大丈夫、私なら、まだ、生きて――……)


 返事をしようと思うのに、声が出ない。伸ばそうとした手も、ぴくりとも動かない。くちびるが何度かかすかにわなないて、それを最後に。


 私の意識は、真っ白な闇の中に落ちていった。

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