016


 ――愛するミアを長命にする。

 実験用資材管理課でフィオが行っていたのは、そんな研究ではないか?


 取調室に向かう廊下を歩きながら、私はそんな考えを巡らせていた。

 人間の寿命を伸ばすための処置が失敗して、結果的に彼女は死んでしまった。つまりは過失致死。


 しかし、この仮説にはすぐさま否定が浮かんだ。

 脳を焼かれれば、人類は確実に絶命する。それは人間だろうがアンドロイドだろうが同じことだ。


 我々の魂――たったひとつの身体にのみ自己同一性を生む神秘の機能――は、脳内で起こる一種の現象とされている。首から下はどれだけ吹き飛んでも構わないが、人類として生きる以上、アンドロイドも人間も、脳だけは死守しなければならないのだ。


(実験による過失致死の線はない。痴情のもつれも一切なかった。やはり、ミアを殺した動機は不明のまま、か……)


 ため息混じりに歩みを早める。角を曲がり、取調室の扉が見えたとき――ぴくっ、と私の脚が止まった。


 取調室から出てくる、見慣れぬ集団。

 刑事には見えない、堅気らしき白衣の人物たちだ。その中にはタムラ所長もいる。ぞろぞろと廊下をゆく彼らは、ちらりと私を一瞥すると、そのまま通り過ぎていった。


(あれは、ワイアット研究所の者たち……?)


 たしかに彼らもまた、間接的な関係者ではある。しかし、中央警察の署内、それもこんな深部まで入り込む許可が出ているなんて、私はいっさい聞いていない。


 こみ上げるのは困惑と不安だ。彼らが出てきたドアに手をかける。勢いよく扉を開けると、中にはいつものように車椅子のフィオが座っていた。


 しかし、いつもと違うところがあった。フィオの前、机の上に、一枚の書類が置かれている。尋問に対する同意書だ。


 聴取責任者の項目は――ワイアット研究所。


 ぞくり、と嫌な予感が胸をよぎった。

 ワイアット研究所は、電脳研究の最前線をひた走る、きわめて特殊な研究施設だ。その機密は国を跨いで厳重に秘匿され、警察どころか、一国の政府でさえ容易には触れられない。


(そんな連中が、フィオの尋問を……)


 すっと背が冷たくなるのを感じ、私は思わず机の前に駆け寄った。荒い動作で椅子に座る。電脳内に資料を広げながら、きっとフィオを睨みつけた。


「――あいつらと、なにを話していた」


 挨拶も早々に、噛みつく。

 正面のフィオは、見たことがないほど疲れきった目をしていた。


「……ただの尋問よ」

「彼らは警察ではない。尋問の権利はないはずだ」

「そこの書類を見たでしょう? あの人たちは、警察の権利に割り込むだけの力を持っている」

「なにを聞かれた」

「さあ」

「なにか取引をしたのか」

「……」


 フィオは応えない。ただ憔悴しきった表情で、じっと黙り込んでいる。焦りと苛立ちがむらむらと込み上げて、私はタンッ、と手でデスクを叩いた。


「君の取調官は私だろう。他の連中の尋問に応じたのか」


 苛立ち紛れに吐き捨てると、フィオの目が丸くなった。ぱちぱちと端正なまつ毛がまばたいて、驚いたような声がする。


「ツバキ、あなた――」

「なんだ」

「いえ、その……」

「だから、なんだ。はっきり言え」


 苛立ちを隠しもせずに言い放てば、フィオはなぜかくすりと笑った。「あのね」と前置きをして、とても小さなささやき声。


「今の言い方……かまってもらえなくて拗ねる子供みたいよ」

「なッ……⁉」


 ――かっ、と顔が熱くなった。

 改めて自分のセリフを振り返ってみる。言われてみれば確かに、フィオの言う通りに聞こえなくもない。


「や、ちが、そうじゃない! 私は――」

「ふふ、わかってるわ」

「だから、違う! そんな目をするな!」

「ええ、違うのよね。大丈夫よ」

「なにがだ!」


 ほとんど叫ぶように言えば、フィオはくすくすと笑った。ダミーボディの肩を揺らし、水色の瞳がうっすらと細くなる。

 その瞳に宿るあたたかな温度にはっきりと見覚えを感じて、私は思わず目を背けた。


 桜色の瞳が、楽しそうなあの笑みが、鮮やかに蘇る。私を見て嬉しそうに笑っていた、あたたかく優しい眼差し。


(くそっ……)


 似ているなんて、思いたくないのに。どうしてサクラが思い出されるんだ。苦し紛れに舌打ちを押し殺す私に、フィオがふっ、と小さく息をついた。


「ありがとう、少し気が紛れたわ」

「……それはどうも」


 ふてくされた声を上げつつ、思う。『気が紛れた』ということは、さっきまでの尋問は気が沈むようなものだった、ということだ。

 ゆっくりと視線を戻す。フィオの微笑みには、まだ疲れが色濃く残っていた。ため息をつく。


「どんな尋問だったかは……聞いたらまずいのか」

「あなたのためにも、止めたほうがいいわね」

「……わかった。これ以上は聞かない」

「ありがとう」


 やわらかく微笑むフィオ。私は気持ちを切り替えると、ぴんと背筋を伸ばし、記録を開始した。


「――では、Ph_10ny。花嫁ミア殺害事件について、尋問を開始する」

「ええ。よろしくね」


 気を取り直したように居住まいを正すフィオ。私は軽く腕組みをすると、言った。


「昨日までのように、個人的な思い出を語ればいいんだな」

「ええ、でも……」


 フィオが迷うような表情を浮かべる。


「どうした?」

「その……少し、迷っていて」

「何をだ」

「あなたに要求する『記憶』のことだけど……」


 遠慮がちな、けれど何かを要求したがっている雰囲気に、私は黒手袋の手をぎゅっと握り込んだ。

 ゆっくりと顔を上げ、とても静かにフィオが言う。


「聞きたいことがあるの。でも……この質問は、あなたをひどく傷付けるかもしれない」

「……」


 フィオの目は真剣だった。戸惑う。

 あんなにむごたらしく家族を殺した人のはずなのに、彼女はなんの関係もない私を傷付けることを恐れている。倫理観としては、あまりにも不自然だった。


 けれど思えば、私の知るフィオはいつも礼儀正しく、不躾な真似など一つもしなかった。常に穏やかな微笑みを崩さず、時折ひどくやさしい目で私を見た。


(そう、まるで彼女のように――……)


 深い記憶の底できらめく、桜色の瞳。小さな子を見守るような微笑み。私をたしなめる時の、少し呆れたような声。


 気が付けば、ぽつりと言葉がこぼれ落ちていた。


「……好きにすればいい」

「え、でも」

「嫌なら答えない。だから好きに尋ねればいいし――」


 そこまで言って、続きを言うかどうか、迷う。これを口にするには、わずかばかりの抵抗があった。

 フィオから目を逸らす。逡巡が脳裏をめぐる。数秒の躊躇の後、私はとうとう、ぼそりと呟いた。


「多分、だけれど……君は、本当に私の嫌がることは、聞かない気がするから……」

「――っ……」


 小さく、息を呑む音。

 なんだとばかりに、ちらとフィオの方を見る。

 そのフィオはといえば、大きな目を丸くして、口までうっすら開いていた。困惑する。


「……なんだ」

「あ、いいえ……ちょっと、驚いただけ」


 フィオはどこか戸惑ったようにまばたきをすると、ふっ、とやわらかく苦笑した。


「あなたのこと、少しずつわかってきたわ」

「そうか?」

「ええ。なんていうか――放っておけない感じがする」

「……そうか?」

「そうよ」


 よくわからない。首を傾げる私を、フィオは穏やかに見つめている。その瞳からは、さっきまでの憔悴が少しやわらいでいた。


「本当、今日のあなたには驚かされてばかりだわ」

「そんなつもりはないのだが」

「ええ、あなたはそうよね。単に私が、初めて本当のあなたに触れて、驚いているだけなのよ」


 フィオが目を伏せて微笑む。その眼差しの奥に、なにか深い感情がにじんでいるのを見て、私はかすかに眉を寄せた。


 手のひらを示し、仕草だけで質問を促す。それでようやく決心がついたらしい。フィオの眼差しが持ち上がって、真摯な瞳が私を見た。すっ、と息を吸う音。


「あなた……PTSD、なのよね」

「そうだ」

「記憶障害が?」

「ああ。『決定的な瞬間』の前後は思い出せない」

「……そう」


 ぽそり、と言うと、フィオはためらったように息をついた。視線が机の上をさまよう。そして、ゆっくりと顔を上げた。水色の澄んだ瞳が、意を決したように私を見つめている。


「――覚えている範囲で構わない。あなたの『決定的な瞬間』に一番近い記憶を教えて」

「……」


 おそらくは、そんなことを聞かれるだろうと思っていた。私は「わかった」と呟くと、美しい水色を見つめ返した。


「覚えているのは……サクラと喧嘩したことだ」

「喧嘩。なにが原因だったの?」

「思い出せない。ただ、本当に、滅多にないくらい――いや、初めてだな。それほど、激しい諍いだった。なにしろ、あのサクラが激昂して、家を飛び出したのだから」

「家出したのね」

「そんな立派なものじゃない。もっと衝動的で……彼女は鍵すら持たず、なにか叫んで……玄関を飛び出していった」

「なにを叫んだの」

「……それも、思い出せない。ただ、覚えているのは、あの桜色の瞳が、なんだかすごく、見覚えが、いや、違う……」

「……ツバキ?」


 思い出そうとすると、頭の後ろが、ずくん、ずくん、と奇妙に脈動する。どこか深いところがぐらぐら揺らぐ、恐怖に似た感覚があった。まるで沈みかけた船に乗って、足元がゆわん、と荒波に持ち上げられて、一気に重力を失っていくような。


 眩暈にも似た奇妙な感覚。不定形な感情が胸のなかをゆっくりとかき混ぜていくのを感じながら、私は呆然とつぶやいた。


「そうじゃない……見覚えがあったのは、君だ……」

「私……?」

「そうだ、その目だ……一見あたたかいのに、切々とした感情が、ずっと底の方で揺れていて、昏い切なさを必死で隠している……そんな気配が、ときどき、サクラの目の中にも……」

「っ……」

「目が合うと、わかるんだ。一瞬だけ、あの桜色の奥に、なにかがよぎる……深くて、切なくて、哀しいような、だけどもっと、もっと違う……」


 わからない。思い出は深い海の底にあるようで、冷えた暗闇に閉ざされている。あの美しい桜色だけが水奥にちかちかと瞬いていて、私は賢明に目を凝らす。


「わからない、あれは……あれは、なんだ……?」


 途方に暮れた声がひとりでにこぼれ落ちて、黒手袋の両手を見下ろして、そのとき。


「――本当に、わからないの?」


 ぽつり、と雫が落ちるような声がした。

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