017

 はっ、と顔を上げる。そこには、シンとした目をしたフィオが、私を見つめていた。


「わから、ない……」

「そう。サクラさんも――かわいそうに」

「え……?」


 呆然と答える。フィオはかすかに眉を寄せると、同情するようにささやいた。


「彼女の理想が不健全だと、前に私は言ったわね」

「……ああ」

「でも、わかったわ。なぜサクラさんが、理想の実現こそが幸福なのだと、己に言い聞かせなければならなかったか」

「な……なぜ」

「本当の幸せなんて、望めないとわかっていたからよ」

「っ――なんだ、それは……」


 そんなのは知らない。姉の私がわからないのに、フィオにわかるはずがない。そう思うのに、心臓は冷えた鼓動を打ち鳴らし、不可思議な予感に震えている。


 フィオは憐れむような目をして、少しだけ躊躇を込めて、くちびるを薄く開いた。


「……いいわ。私が答えを教えてあげる」


 答え。サクラと会ったこともない彼女が、それを教えられるというのか。

 無意識に頷いていた。フィオが痛ましげに目を細める。

 そして彼女は、言った。


「彼女は――あなたに恋してた」


「――えっ?」

 信じられない言葉に、脳が一瞬理解を拒否する。呆然と目を見開く私に、フィオはひどく悲しそうに笑った。


「彼女の瞳によぎるものを、あなたはわからないと言う。今の言葉を聞いて、ただ純粋に驚いている。だからこそ――サクラさんは思ったのね。私の想いは永遠に通じない。ただの一人の女としての、このささやかな幸福は、絶対に叶えられることはない、と」


 それきり、フィオはとても細い息を吐く。


「その気持ち――とてもよく、わかるわ」

「サクラが……え……?」


 ほとんど意味をなさないつぶやきが、私の口からこぼれ落ちた。


 ――サクラが、私を好きだった?


 その言葉を、心のなかで呟いた、瞬間。ちかちかっ、と記憶の奥でなにかが光った。あっ、と思った。

(そうだ、あの日……)




『――ツバキはなにもわかってない‼ 私が、私がどれだけ、ずっと我慢してるか‼』

『だからそれを言えって言ってるんだ! 沈黙を守るくせに理解だけはしてほしいなんて、子供みたいな理不尽に応えてやる義理はない!』

『わかってる、わかってるよ! ツバキは正しい! いつだってそう! いつもいつも、間違ってるのは私……私が、私だけが、こんな、ずっと……っ』

『サクラ……?』

『もうやだ、もうやだ、これ以上、正しくなんかなれない……‼』

『おい、落ち着けって――』

『ツバキ――ごめん』



 その囁きと共に――サクラは、私にキスをしたのだ。





「……そうだ、それで……サクラは泣きながら飛び出して、帰ってこなくて……」


 さっきからひっきりなしに瞬くのは、失われた記憶の断片だ。ばらばらで繋がりのないシーンが不規則に再生されて、頭の中で形を成していく。


「夜、チャイムが鳴って、サクラだと思って開けたら、あの男が……」

「あの男……?」

「シスを、殺した男だ……ひどい顔色で、思い詰めた目で、だから私は、彼を、あ、ああ……」

「ツバキ……ツバキ、待ってツバキ!」

「気が付いたら、朝日がまぶしくて、またドアが開いて、」

「ツバキ!」

「サクラが、私たちの姿を見て、桜色の目が歪んで、どうして、あの、あのきれいな目が、どうしてあんな――」

「っ――やめてツバキ‼」


 がしゃん‼ とものすごい音がして、はっ、と私は我に返った。はあっ、はあっ、と荒く短い息がしきりにこぼれて、全身にまとわりつく嫌な感触に、震えが止まらない。


(……いま、なにか……)


 なにかを、思い出しかけた気がする。けれど掴みかけた記憶の手触りは、我に返った今の一瞬で、完全に霧散してしまった。

 はっ、はっ、と開いた口からせわしない息をして、気付く。正面のフィオがいない。


「フィオ……⁉」


 椅子を蹴って立ち上がる。机を回り込むと、フィオは拘束された車椅子ごと、床に倒れ込んでいた。


「大丈夫か」

「っ……私は、平気……」


 頭を叩きつけられたらしい、フィオは痛そうに顔をしかめている。慌てて助け起こすと、水色の瞳が心配を宿して私を見つめた。かすれた、小さな声がする。


「あなたこそ、大丈夫……? 気分はどう?」


 向けられた気遣いで、わかった。

(今、わざと……)

 フィオがうっすら微笑む。ずきり、と胸が痛くなった。


 筋力のないダミーボディで、四肢を拘束された状態で、車椅子ごと倒れ込むなんてそうそうできることではない。できたところで、この状態では身を庇うことすらできず、怪我をするだけだ。


 それでもフィオがこうした理由。そんなのはわかりきっている。錯乱した私を、引き戻すためだ。


 ぐっ、とくちびるを噛む。よくわからない感情が込み上げて、私は車椅子の位置を整えると、フィオから数歩距離を取った。自分の椅子に戻る。


「……すまない。必要なら医療スタッフを呼ぶが……」

「大丈夫よ。続けましょう」

「……わかった」


 私の相槌に、フィオが目元を和らげた。つぶやく。


「君の満足するようなものを、私は差し出せただろうか」

「……ええ、そうね」

「質問をしても?」


 こくり、と頷き。

 私は「そうか」とつぶやき、口をつぐんで考え込んだ。


 なにを尋ねるべきか。そう考えたとき、蘇ったのは取調室前の廊下で見た、ワイアット研究所の一団だった。

 こんなところまでフィオを尋問しに来たということは、彼らには、フィオから得たい情報があったということだ。


(つまり――)

 彼らもまた、フィオがどうやって人間を殺害できたのか、そのカラクリを知りたがっているのではないか?


(だったら、質問の方向性も変わってくる……)


 顎に手を当て、考える。

 ワイアット研究所が殺人事件にどう関係するのか、現時点ではわからない。仮に探りを入れたところで、『あなたのためにも聞かない方がいい』と言ったフィオは、何も答えてはくれないだろう。しかし、あの研究所が完全に潔白とも思えない。なにか質問はしたいが、どう聞いたものか。


 しばらく考えたのち、伏せていた目を上げて、私は問うた。


「君の所属する実験用資材管理課には、なにか秘密があるのか?」


 フィオがかすかに息を詰める。躊躇の気配。助け舟のつもりで、私は補足を付け加えた。


「返答は二択でいい。イエスかノーで答えてくれ」


 長い逡巡のあと、フィオがささやく。


「……あるわ」


 その言葉に、知らず詰めていた息を吐く。

 初めて引き当てた、明確な手がかりだった。気を引き締め、さらに尋ねる。


「秘密の内容は?」

「まだ……話せない」


 ――まだ。

 いずれ話せるようになる、あるいは今は条件が足りない、ということだろうか。


「差し出す『思い出』が足りなかったか?」

「そうじゃないわ」

「ならば、どういう意味だ」

「……ごめんなさい。答えられないの」


 苦しそうにフィオがささやく。嘘をついているようには見えなかった。水色の瞳が、そっと私を見る。


「今の回答じゃ、あなたの差し出したものに見合わないわね。代わりにもうひとつ、質問に答えるわ。それで許してくれるかしら」

「……わかった」


 小さく頷くと、私はふたたび考えた。

 実験用資材管理について、現状ではこれ以上掘り下げるのは難しいようだ。それならば、他のことを聞くべきだろう。


(他の……)

 その瞬間、蘇ったのは一枚の白い紙片。


 私は眉を寄せ、くちびるを引き結び、考えた。ちら、とフィオを見る。彼女はじっとこちらを見つめたまま、私の問いかけを待っていた。


 少し迷って、ポケットに手を差し込む。証拠保管袋を取り出した。黒手袋の指先で、机の上にすっとそれを滑らせる。透明な袋の中に、一枚の白い紙片。



 ――ミアに長生きしてほしい。



 それを見た瞬間、

「ッ――……‼」

 水色の美しい瞳から、ぼろっ、と涙がこぼれ落ちた。


「フィ、フィオ……⁉」


 狼狽する。ここまでの反応は予想していなかったからだ。

 見開かれたフィオの瞳から、次々と透明な雫が伝っていく。震える、小さな声がした。


「……っ、そういう、こと……?」

「どういう意味だ?」


 フィオは答えない。ただ呆然と涙を流している。端正な顔がくしゃりと歪んで、ひくっ、と白い喉が鳴る音がした。


「あんまりだわ……どうして、こんな、どうして……」


 しゃくりあげる、嗚咽まじりの涙声。震える肩と、したたる涙。


 フィオがなぜ泣いているのかわからず、戸惑う。彼女のこぼした言葉の意味も、過度な反応の理由も、なにも。それでも、目の前のフィオの姿はあまりにも悲痛で、胸が勝手に痛くなる。


 目元を歪め、私はぼそりとつぶやいた。


「『どうして』……それを知るのが、私の仕事だ。なぜ泣く? この紙切れに、どんな意味が?」

「っ……」


 返事はない。真っ白い取調室に、フィオがしゃくりあげる音だけが響いている。痛々しさに、眉が勝手に寄っていった。感情が、静かに込み上げてくる。


 ――知りたい、わかりたい、理解したい。


 この事件の全容を知りたい。彼女の涙の理由を知りたい。本当のことを、私はすべて理解したい。

 込み上げる感情に、言葉が、ひとりでにこぼれていた。


「……仕事だから、だけじゃない」

「え……?」


 フィオが顔を上げる。涙で濡れた白い頬。

 心臓の奥が、震えるような感覚があった。黒手袋の手をぎゅっと握りしめる。


 一瞬だけ、正直な気持ちを告げることをためらった。ぐっとくちびるを噛んで、迷いが霧散するのを待つ。

 小さく息を吸って、私ははっきりと言った。


「ただ――私が、知りたいんだ。本当のことを」

「……私、だって――」


 フィオの震える声がする。呆然と目を見開いた彼女は、くちびるを小さくわななかせ、


「ずっと、知りたかったわ……」


 そう、涙混じりにつぶやいた。

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