018

 痛ましさに目元を歪め、それでも問いかける。


「このメモに、一体どんな意味がある? 君はなにを知っていて、なにを知らないんだ? 君はこの尋問で、私になにを求めている?」


 浮かぶ疑問を心のままにぶつけると、フィオはかすかに表情を歪めた。


「それは……刑事としての質問?」


 震える問いかけに「違う。私個人の質問だ」と答える。フィオは「そう」と小さくささやくと、まばたきで涙を払い落とした。逃げるように目が逸らされる。


「今の質問には、まだ答えられない。別のことを聞いて」

「……」

「それから、忘れないで。あなたは刑事で、そして私は……あなたにとって、ただの殺人者よ」

「それは……いや。そう、だな……」


 私は紙片を引き寄せると、ポケットの中に戻した。この件については、これ以上突っ込んでも得られるものはなさそうだ。


(それなら……)

 もうひとつ、気になっていることがある。だが、これもまた『答えられない』でかわされるかもしれない。

 迷った末、私はためらいがちに口にした。


「もしかしたら、これは個人的な質問かもしれないが……」


 逃げ腰の前置きに、フィオが黙って続きを待つ。

 少し逡巡したのち、思い切って問いかけた。


「私の持つワイアットの血に、一体どんな意味がある?」

「……どういうことかしら」


 すっと居住まいを正すフィオに、私は続ける。


「ワイアット研究所の者たちだ。私はたしかに『ツバキ・ワイアット』だが、あの研究所とはなんの関係もない。だが、あそこの人物たちは、妙に私の名を気にかける」

「……」

「君といい彼らといい……ワイアットの系譜に、なんの意味があるんだ。私の血と今回の事件に、なにか繋がりがあるのか?」

「それは……」


 フィオが薄くくちびるを開く。けれど彼女はそれ以上の言葉を口にせず、小さな吐息を漏らすだけだった。


「これも、答えられないのか?」

「……いいえ」


 ためらいがちな返答。一瞬だけ目を伏せたフィオは、すっと私を見つめると、静かにささやいた。


「そんなに知りたいのなら……調べてみるといいわ」

「調べる?」

「ええ。ワイアットの系譜について。図書館のデータベースがいいわね。申請さえすれば誰でも調べられるわ。たぶん、あなたでも」

「答えになっていない。私は、君に聞いている」


 わずかに口調を強める。しかしフィオは一切動じた様子もなく、まっすぐに私を見つめた。


「本当よ。あなたの知りたいことは、そこに全て書かれている」


 なにか意を決したような、きっぱりとした声に、たじろぐ。フィオの様子には、ごまかしも、後ろ暗さも見られなかった。


「……わかった」


 小さくつぶやく。どうも、嘘ではなさそうだ。時間を見つけて、データベースにアクセスしてみるべきか。


 そう思ったとき「ねえ」と小さな呼び声がした。「なんだ」と返事をして――驚く。


 フィオは必死な、すがるような瞳で私を見つめていた。見たことのない、ひどく思い詰めた表情をしている。

 まるで全人類の命でもかかっているかのような目をして、小刻みに震えるくちびるが、ゆっくりと開かれた。


「ひとつ、お願いがあるの」

「……なんだ?」

「拘束を――外してほしい」

「なぜ」


 私の問いに、フィオが身を乗り出す。切実な声。


「十秒でいいから」

「だから、なぜだ」


 水色の瞳が、苦しそうに歪んだ。なにか強烈な感情を湛えた声が、細い喉の奥から絞り出される。


「あなたの……手を、握ってみたい」

「っ……」


 なぜ。もう一度、そう問うべきだった。それなのに、私の身体は言うことをまるで聞かなくて、気が付けば、ふらりと椅子から立ち上がっていた。


 机を回り込み、車椅子の横に立つ。手術着をまとった、かぼそい身体。その腕の拘束を、ぱちりと外す。


 フィオはゆっくりと両手を持ち上げると、

「ありがとう」

 と微笑んだ。


 ほっそりしたフィオの腕が、ぎこちなく動いていく。ダミーボディの弱々しい手が、震えながらこちらに伸ばされた。白い手が、そうっと私の左手を取る。フィオの両手に包み込まれる、黒手袋越しのあたたかな感触。


 フィオの手が、確かめるように私の手を撫でていく。水色の瞳、その奥で、私の知らない痛切な感情がひたひたと揺れて、溢れた。そして。


「っ……」


 ぽた、ぽたぽたっ、と。私の手の甲に、フィオの涙が落ちた。

 その透明な美しさに、感情がひどく揺さぶられる。ぎゅう、と胸が切なくなった。


 フィオがなぜ泣くのか、私は知らない。彼女の理由など、なにひとつわからない。それでも、ひとりでに心は揺れて、心臓の深い部分が震えている。


 フィオの額が、私の手の甲にそっと押し当てられた。まるで祈りを捧げるような仕草に、心臓の奥がますます苦しくなる。


 美しい銀のつむじから、消え入りそうな儚い声。


「ツバキ……あなたは自分のことを善良だと思う? 生きるに値すると信じてる?」

「フィオ……?」


 なぜ、そんなことを聞くのか。わからない。

 戸惑った私の手にすがりついて、懺悔のように祈りを捧げて、フィオは悲痛な声を絞り出す。


「どうしたらいいの……」

「なんの、話だ」


 私の手に額を押し当てたまま、フィオがゆるゆると首を振った。すすり上げる音がかすかに聞こえて、銀色の頭が静かに持ち上がる。


 あらわれた瞳は、痛みか、苦痛か、あるいは悲しみか、そういったたぐいの感情でいっぱいになっていた。不安定に揺れる水色が、絶望的な色で私のことを見上げている。


「……私は、あなたを――」



 ――その瞬間、けたたましいアラート音。



「ッ――⁉」


 びくッ、と全身が突っ張った。反射的にフィオの手を払い除ける。ばっ、と辺りを見回した。

 警告音が鳴り止まない私の電脳内に、引きつった相棒の声が響き渡る。


『ツバキ、緊急事態だ‼』

『アイク⁉ どうした、なにが……!』

『ワイアット研究所でテロだ‼ アンドロイドを狙ってガス状のナノマシンが散布された! おまえも向かえ!』

『っ……わかった、すぐ行く‼』

「……ツバキ……?」


 はっ、と見下ろす。車椅子の上で、フィオの涙が私を見つめていた。ぐっ、と口元を引き結ぶ。


「すまないが、尋問は中断だ。私は行く」

「え、あっ、待って――!」


 悲鳴じみたフィオの声を振り払い、私は取調室を飛び出した。


 署内はすでに大混乱になっている。すさまじい怒号と足音が、廊下を駆ける私の横を、いくつも飛び交っていった。


 署の出入口で待っていたアイクが、無言で銃を手渡す。ひとつ頷き、受け取った。武器の携帯・使用許可を確認する。私たちはワイアット研究所を目指して、乗り込んだパトカーを急発進させた。

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