030

 収監室に戻された頃には、夜だった。

 といっても、窓もない部屋で時間の感覚などわかろうはずもない。ただ数字で確認しただけだ。


 冷えた壁に背をつけ、私はじっと膝を抱えこんでいた。足元には20年食べ慣れた、青いゼリー飲料のゴミが転がっている。


(そういえば、フィオの収監室はどこだろうな……)


 現実逃避のように考える。ぼんやりと顔を上げると、強化ガラスの壁の向こうに長い廊下が見えた。その先は、園芸倉庫の隠しドアに繋がっている。


 事件前夜、フィオはこの廊下を通ってここへ来た。私の〝中身〟を書き換えるために。


 しかし、なぜフィオはそんなことをしたのだろう?

 事件後、記憶を取り戻したフィオは私の命を要求したという。だがどうせ殺すなら、事件の前夜、ここへ侵入したときに殺せばよかったのだ。フィオには殺人の手段があったのだから。


 なぜフィオは私を人間に偽装した上で、今になって殺そうとしているのだろう。まるで意図がわからない。


(彼女は……なにを考えていたのだろう……)


 思い出されたのはフィオの瞳だ。

 いつだって、彼女はその瞳の奥になにかを隠していた。フィオが私の手を握って、泣いたときを思い出す。


『ツバキ……あなたは自分のことを善良だと思う? 生きるに値すると信じてる?』


 その質問に、『値しない』と感じたから、フィオは私を殺そうとしたのだろうか。わからない。


 フィオの涙が蘇る。私に馬乗りになって、顔を歪めてぐしゃぐしゃに泣いていた、凄絶なほどの表情を。


(……サクラのときと、同じだ)


 あの水色の瞳の底で、私の知らない深い感情が揺れている。苦痛と悲嘆と愛する人への思慕が入り混じった、ひどく昏い感情。


 あんなに言葉を交わしたのに、フィオが何に苦しんでいるのか、私には結局わからなかった。そのことが苦しかった。逮捕されたフィオが、個人的な会話を交わしたのは私だけだ。彼女を理解してやれるのは私だけだったのだ。それなのに。


 記憶の中で、水色と桜色が重なる。胸の底が重くなった。

 私はまた、手を伸ばせば届くはずだった真実を見逃して、誰かを傷付けていたのだろうか。かつてサクラにしたように。


 抱えた膝に額をうずめる。ぎゅうっ、と背中を丸めて、震える息を長く吐いた。


「……疲れた……」


 ぽつり、とつぶやきが落ちる。がらんとした収監室に、その声は思った以上に頼りなく響いた。冷え切った呼吸音だけが、残響のように小さく震えている。


 本当のことが知りたかった。だけど同じくらい、もう何一つ知りたくはなかった。

 なにも考えたくない。ここは寒い。とても疲れた。どうせ明日死ぬのだ。なにもかも、もうどうでもいい。


「……フィオ……」


 あの水色の瞳が、脳裏で静かにまばたいている。切々とした痛みと、深い悲しみに耐えている、澄んだ水色。


 フィオ。君の苦しみを拭ってくれる唯一の人は、愛すべきミア・アンジェリコは――どうして今、君の側にいないのだろう。


 きっと彼女だったら、君にそんな顔はさせないのに。君はなにを意図して、なにを思って、なにに苦しんでいる? なにがそんなに悲しい? どんな痛みをこらえている?


 ずるずると壁にもたれた身体がずり落ちて、意識がぼんやりと遠くなる。夜は深い。疲労がひどい。深い眠気が、ゆっくりと私に迫ってきていた。


 考えにとりとめがなくなってくる。明日死ぬのだという実感は、思ったよりは薄かった。冷えた床に転がって、いずれ止まる呼吸を繰り返す。


 ゆっくりと目を閉じた私の両隣に、フィオとサクラが立っている光景を、うっすらと幻視した。愛情深い瞳を持ち、私の知らない傷を負う、ふたりの女性。



 アンドロイドは愛をデザインされて生まれてくる。

 私たちは愛し愛さなければ生きられない。

 だけど――

 アンドロイドにとって、愛は呪いなのかもしれない。



 断片的に浮かんだ考えは、私をひどく悲しくさせた。喉の奥がつんと冷たくなる。小さく鼻をすすって、ぎゅっと目を閉じる。


 思考がますます断片化してきた。言葉にならない曖昧な身体感覚。おぼろげな愛の手触り。悲しみの澄んだ香り。深い水の中に引き込まれるような感覚。遠ざかる現実感と、やってくる眠り。


(ああ、これが私の、最後の夜か――)


 細い息を吐いた私の目尻から、冷たい水がひとすじ、静かに伝い落ちていった。

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