009
夜更け過ぎ、警察寮の自室に入る。ぱたん、と背後でドアが閉まった。
靴を脱ぎ、歩きながらパンツスーツのネクタイを軽く緩める。チェストの前を通りざまに、伏せておいた写真立てをぱたりと起こした。
整った部屋を抜け、台所に入る。最新家電ばかりが並ぶ最奥の冷蔵庫を開けると、足元にどっと冷気がなだれこんできた。
ぼんやりと明るい庫内はほとんど空っぽで、青いパッケージのゼリー飲料しか入っていない。無造作に一パックを掴み出すと、私はばたんとドアを閉めた。
台所から居住スペースに戻り、立ったままぱきっ、とゼリー飲料の蓋を開ける。口をつけた容器から、冷えたゼリーがつるりと喉に滑り込んだ。
壁にもたれかかり、無感動にゼリーを飲み込む。正直、ほとんど食欲がなかった。それでも食べなければ保たないから、こうして栄養だけは接種している。
このゼリー飲料は高度な栄養食で、よく病院などで使用されているものだ。そんなものを常飲するなんて、とアイクにはいつも呆れられている。だが、便利なものは便利なのだ。いくら情緒がないとか人間らしい食事をしろとか言われたところで、利便性に勝るものはない。
ずずっ、と最後までゼリーを飲み終えると、私はパッケージをぎゅっと捻ってゴミ箱に放り込んだ。がこん、とチェストの横のゴミ箱が揺れる。
ゴミ箱から視線を上げれば、写真立ての人物と目が合った。
――桜色の、明るく澄んだ瞳。愛すべき私の家族。
写真立ての中では、警察官の制服を着た人物がふたり、並んで写っていた。片方は私、もう片方は妹のサクラだ。足元にシェパードが伏せている。名前はシス。とても利口で、忠実な警察犬だった。
壁にもたれかかったまま、ぼうっと写真立てを見つめる。警察寮の部屋は真新しいが必要なもの以外なにもなく、がらんとして薄暗い。あたたかさも、人の気配も、にぎやかな犬の爪音も、なにひとつ感じられない。
(私は……どうして、こんなところにいるんだろう)
たった、ひとりで。
なんだか現実感がなかった。サクラとシスを失ったあの時からずっと、なにもかもが嘘のようだ。心を守るための機構だとわかりながらも、仕事を離れてひとりになった途端に襲ってくる離人感は、じりじりと私を苛んだ。
眉間を揉んで、首を振る。疲れていた。今日はあまりにも、色々なことがありすぎたのだ。
フィオの尋問、自供の約束と取調官としての指名、研究所での聞き込みに、じわじわと漂う不穏な気配。
明日もまた、フィオの尋問がある。私が彼女の取調官として行う、最初の尋問だ。
(そういえば、彼女に『差し出す』記憶を、まだ決めていなかったな……)
それも個人としての、極めて感情的な記憶だ。思い出、と言い換えてもいいだろう。
しかし、懸念事項があった。私には、フィオが満足するようなものを差し出せないかもしれないのだ。
過去の思い出なら、それなりに用意はできる。でも、私の人生において恐らくもっとも強烈な記憶を、私は彼女に見せることができない。
(どうしろっていうんだ……)
はあっ、と湿ったため息が漏れた。もたれかかった壁から身を離し、ふらふらとベッドに向かう。スーツ姿のまま、ぼすっ、とマットに倒れ込んだ。
「……疲れた……」
仕事中は気持ちが張り詰めていて気づかなかったが、歴史的な殺人事件の捜査は思った以上に疲労を与えていたようだ。立ち上がって着替える気にもならなかった。
長く息を吸って、吐く。投げ出した腕の先、黒い革手袋が輪郭を失ってぼやけていく。シーツのにおいを吸い込んで、なんだか妙に落ち着かない。それでも、しばらく目を閉じているうちに、気が付けば私は眠りに落ちていた。
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