010

「――キ、ツバキ……!」


 白い闇の向こうで、私を呼ぶ声がする。

 懐かしい声だ。そう、まるで今すぐ泣き喚きたくなるくらい、優しく、あたたかな――。


「ん……」

 うっすらと目を開けると、桜色の瞳が私を覗き込んでいた。ぱちぱちと、目の前で長いまつ毛がまばたく。


「サク、ラ……?」

「おはよう。もう朝ごはん、できてるよ」

「あ、ああ……起きないと……」


 ぼんやりした意識でつぶやくと、サクラはまるで小さな子を見守るような、とてもやわらかな眼差しで私を見つめた。


「ふふ。いいんだよ、ゆっくりで」


 桜色の瞳が、まぶしそうに細められる。

 その奥に、なにか独特の感情がにじんでいた。深く切ない、悲しみに似た、けれどそれとは違う何か。

 見慣れたその瞳を見つめ返して、私はもぞもぞと目を擦った。


「んん……起きる……」


 もそもそと身を起こす。サクラの後を追って部屋を移動した。サクラはキッチンに戻ると、カウンター越しに「珍しいね」と声をかけてきた。


「ツバキ、いつもスッと起きるじゃない。悪い夢でも見たの?」

「そうかもしれない……」

「ふふ、昨日もボスに絞られてたもんね。いい加減に短気を治せって」

「あ、あれは犯人が下衆だったから――」

「だからって私たち警察官が法を犯していい理由にはならないでしょ。殴っちゃダメ」

「でも、どうせ大した怪我じゃ――」

「それでもダメなの」

「ぐ……」


 両手にサラダボウルを持ったサクラがカウンターを回って現れて、テーブルにとんとん、と皿を並べていく。彼女がカトラリーを用意している間に、私はシスの食事を用意した。フードのにおいを感知して、寝床で伏せていたシスがぱっと起き上がる。


 テーブルの横に皿を据えると、シスはチャッチャッ、と爪音を立ててこちらへ近寄り、行儀良くその前に座った。ぱたぱたと尻尾を振って、つぶらな瞳がじっと私たちの様子を見つめている。


 朝食を並べ終えたサクラが、かたりと食卓につく。私も同じようにした。ぴっ、と指先で合図を送ると、シスが勢いよく皿に鼻先を突っ込む。それを見届けて、私たちもカトラリーを手に取った。


 かちゃかちゃと食器が鳴る中、私たちは穏やかに食事をはじめる。


「ツバキ、始末書はもう出したの?」

「ああ、昨夜寝る前に」

「え。出す前に言ってよ。一回確認したかったのに」

「始末書くらい一人で書ける。何枚書いてると思ってるんだ」

「自慢しないでよ……ねえ、正義感が強いのはいいことだけど、傲慢になるのは違うからね」

「わかってるさ。私たちが善良でいられるのは、幸運にも、たまたま安全で恵まれた環境にいたから……だろ?」

「そうだよ。善もお金も安全も、真の平等なんて無理だけど……それでも私は、みんなが安心して善良でいられるよう、警官として頑張りたいの。もう誰も、被害者にも加害者にもしないために……」

「サクラ……」


 愛すべき妹を誇りに思う。サクラは善良だ。いつも誠実で、奉仕の精神を忘れない。優しさのために痛い目を見ることもあるが、そこは私がカバーすればいい。彼女のためなら、どんな協力でもするつもりだった。


(だけど――)


 ふと、思う。

 本当に――そうだっただろうか。

 強く、優れて、恵まれた、多くのものを持ち合わせた存在は、本当に善たり得るのだろうか。


「――ちがう……」


 食事の手が止まる。きらりと光るカトラリーを見下ろして、私は自分の口元から、ぽつりとささやきが落ちるのを感じた。


「……圧倒的に恵まれた強者が、許されざる大罪を起こすことも、ある……」


 ――そうだ。私は、それを知っている。


「そんなことが、あったんだ……世界で誰より優れた存在だったのに、弱い者を守ってやるべきだったのに、絶対に許せない、罪を――」


 正面のサクラがかすかに小首を傾げた。桜色の瞳がまばたいて、不思議そうな声がする。


「ツバキ? どうしたの?」

「わたし、私は、知って――……」


 じわり、と急激に目の前がかすんで、顔をしかめた。カトラリーを置いて、ごしごしとまぶたを擦る。


 なぜだ。テーブルの上がよく見えない。まばたきを繰り返す。皿の中身も、カトラリーがフォークなのかスプーンなのかも、霧のようにぼやけてなにもわからない。顔を上げる。朝の部屋は不自然に明るくて、窓の外は真っ白く塗りつぶされている。


 半ば呆然としながら、くちびるが、勝手に言葉を紡いでいた。


「そうだ……あの、女……許せない、絶対に、」

「ツバキ?」


 サクラの声が遠い。まるでもう二度と手が届かない場所から響いているようだ。

 もう一度目を擦ろうとして、黒い革手袋が目に入った。どうして。ここは朝の自宅なのに、まだ、身支度などしていないはずなのに。


 あたりを見回す。間取りがおかしい。サクラとシスと暮らした部屋ではない。この配置は、白く簡素で真新しい、警察寮の一室の――


「サクラ……? シス……?」


 心もとなくなって、立ち上がる。

 気が付けば部屋はひどく薄暗い。テーブルの下に、じわじわと液体が広がっていくのが見える。すっと血の気が引いて、私は思わずふらりと後ろに下がった。


 テーブルの下、赤黒い液体の中心で――シスがバラバラになっている。美しかったはずの毛並みは、血と脂と臓物にまみれてぬらぬらと輝いていた。黒い鼻先は削ぐように切り落とされ、散らばった四肢はおかしな方向に折れ曲がっている。


「あ――」


 正面で、ゴトン、と大きな音が鳴った。


 はっ、と顔を上げる。暗い部屋の中、テーブルの向こうの姿が消えている。

 私は喉を鳴らして、ゆっくりとシスの横を通り過ぎ、恐る恐るテーブルを回り込んだ。


 テーブルの脚の向こうに、倒れた椅子。その奥に、投げ出された手が見える。桜色の爪が並ぶ、白く華奢な、とても見覚えのある手。


 震えそうになりながら、じりじりと歩を進める。腕が見えて、肩が見えて、横たわる姿が少しずつ現れて、そして――



 ――眼窩から頭を吹き飛ばされた、サクラの死体。



「――ッ……‼」


 はっ、と全身が痙攣する感触で、目が覚めた。


 心臓がばくばくと嫌な音を立てる。視界の隅で、ストレス値の異常を知らせるアラートが激しく瞬いていた。


 けたたましい点滅を繰り返すアラートを止め、深呼吸する。少しずつ輪郭を取り戻していく現実の室内では、カーテン越しの白い光が、やわらかく床を照らしていた。


 フローリングの床はうっすらと輝いている。シスのバラバラ死体も、頭部を吹き飛ばされたサクラも、血と硝煙の混じった不快な臭いも、どこにも存在しない。

 普通の、平穏な朝だった。


(……また、この夢……)


 私はゆっくりとベッドから身を起こし、無表情のまま、親指でそっと涙を拭う。できるだけ普通の顔をして、息を吸って、静かに吐いた。心臓が落ち着くまでに数秒を要した。


 胸元を見下ろす。一晩ベッドで過ごしたスーツには薄く埃がまとわりついていて、このままでは出勤できそうもなかった。溜め息をつく。


 私は衣類ブラシを求めて立ち上がると、シャッ、と勢いよくカーテンを開けた。春の朝日が私の目をまばゆく焼いて、遠くで咲く桜の花が、ちらちらと花びらを散らすのが見えた。

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