【完結・SF】テセウスの船と、その亡霊
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序章
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鐘の音が高らかに響き渡る中、チャペルの扉が開かれる。わっ、と拍手があたりを包む。
長く伸びたバージンロードの突き当たり、巨大なステンドグラスが、万華鏡のように外光を透かしていた。さまざまな色が夢のようにきらきらと光り輝いている。
その下に、白いドレスの姿があった。
たっぷりとドレープの取られた純白のドレス。最高級のシルクの表面に、複雑な色合いの輝きが真珠のように瞬いて、溜め息が出るほど美しい。
輝かしい白を身にまとい、可憐な頬をバラ色に染めて――きっと人生でいちばん美しくなった、私の花嫁が微笑んでいた。
彼女とまったく同じ素材、同じ作りで仕立てられた、自分のドレスの裾を整える。そして私は〝仕込み〟のほどこされたブーケを、ぎゅっと握り直した。
割れんばかりの拍手の中、私は真紅の道をゆく。彼女の隣に並ぶと、やわらかな翡翠の瞳がそっと微笑みかけてきた。笑い返す余裕は、なかった。
私の思いを置き去りに、つつがなく挙式は進む。賛美歌が響き、神父が美しい聖句を唱える。幸福の象徴のごときそれらを、私はほとんど聞いてはいなかった。ただ隣に立つ彼女を、なによりも美しい私の花嫁を、いつまでも見つめていた。
誓いの言葉の段になって、ちら、と彼女が私を見た。ベール越しにくすりと微笑むと、彼女はそっと身を寄せて、ささやく。
「もう。見すぎ。恥ずかしいわ」
「……ごめん。あなたが、あんまり綺麗だから」
こぼれた言葉は、紛れもなく本心だった。よくわからない感情が胸を満たした。
彼女は少し驚いたように翡翠の瞳を見開くと、花がほころぶように笑った。美しかった。思わず、ブーケを強く握りしめる。
神父がゆったりと微笑んで、私と彼女を交互に見た。質問が投げかけられる。
「あなたがたは、人と機械とあらゆる生命の幸福のために、相手を守り、自らを守り、弱きものと互いを愛し、ともに尊重しあうことを誓いますか?」
「誓います」
彼女はすぐに応えた。軽く、はずんだ声だった。
私は、かすかにためらった。不自然な間。一瞬だけ、教会にいぶかしむ空気。それを打ち破るように、私ははっきりと答えた。
「――はい。誓います」
こみ上げる罪の意識を、必死で見ないふりをする。今になって感じる後ろめたさなど、すでになんの意味もなかった。
――わかっている。こんなこと、もはや尻ぬぐいにすらならないことは。
かつての私はただ無垢で、善良さというものを、あまりにも素直に信じすぎていた。人はみな聡明で、未来はいつも明るいのだと、無条件に信じていた。本当に、愚かだった。
誓いの言葉に満足した一同の前で、私はブーケを置く。白いリングピローに視線をやる。サイズ違いの二つのリング。
ひとつは、薬指用。
もうひとつは、小指用。
静かに辺りを見回した。広々とした祭祀用のチャペルは、大勢の人々で埋まっていた。誰もがこの婚姻を望み、喜び、期待に満ちた目で私たちを見つめていた。
結婚指輪を取り上げる。指先が、かすかに震えていた。
――私は、やれるのだろうか。
本当はもっとうまいやり方があったかもしれない。なにもかもが元に戻る方法があったかもしれない。私はまだ、無垢で素直な愚か者なのかもしれない。
それでも、もう、他に手段を思いつかなかったのだ。私は愚かで、そして残酷だ。許されるとは思わない。
(それでも――私は、やるのだ)
私は彼女の手を取ると、緊張をこらえて、華奢な薬指にそっとリングを嵌めた。観衆からため息のような声が聞こえる。彼女がうっとりと微笑んだ。
薬指の指輪をきらめかせ、彼女の手が私の指をとらえる。桜色の爪が並ぶ指先が、古い小指のリングのセーフティを外し、そっと抜き取った。
真っ白いリングピローから、彼女が新しい指輪を取り上げようとする。その手をそっと押さえて、私は彼女に微笑みかけた。
「え……どうしたの?」
私はただ黙って、彼女のベールを持ち上げる。薄く透ける布が取り払われ、美しい翡翠の瞳があらわになった。
自分のベールも持ち上げる。遮られることなく視線が交わり、いとけない彼女の表情が眼の前に晒される。
私は軽く首を傾けて、さも誓いのキスを促すような仕草をした。戸惑った表情の彼女が、おずおずと私に向き直る。
いぶかしむ目をしながらも、彼女は素直にまぶたを閉じた。あまりにも無防備な姿。こくり、と緊張で喉が鳴る。
時が――来た。
――そこからの出来事は、まるでスローモーションのようだった。
置いてあったブーケをむしり取る。花の中に手を突っ込む。中の〝仕込み〟をさっと抜き出す。透き通った青い液体の入った、ガラス製のアンプル。
アンプルの先端を折る。握った手を振り上げる。招待客のどよめきと、複数人が立ち上がる気配。
私は、キスを待つ花嫁の、その耳に――アンプルを、勢いよく突き刺した。
思い切り力を込めて、奥の奥まで突き入れ、傾ける。青い液体が、アンプルからみるみる減っていった。
甲高い悲鳴がチャペルに広がる。取り押さえろ、という叫び。逃げ惑ういくつもの足音。複数の怒声。
呆然と目を見開く花嫁が、かくん、と崩れ落ちた。抱きとめる。蒼白な両頬を、そっと両手で包み込んだ。
美しい翡翠の瞳が、私を見つめている。絶望的な眼差しが、どうして、と問うている。答える代わりに、私は、彼女に口づけた。
触れ合ったくちびるをわななかせる彼女の瞳を、じっと見つめる。私の愛した翡翠色の、美しいきらめき。感情が、痛いほどの切実さをもって胸の底を叩いた。
私はきっと、どうしようもなく愚かなのだろう。馬鹿みたいにかすかな希望にすがって、残酷な行為を正当化している。
(だけど、これだけは真実だ)
こみ上げた哀切と寂寥と、それをはるかに凌駕する、たったひとつの深い感情。切なさに淡い微笑みがこぼれおちて――私は静かな声で、そっと彼女にささやいた。
「――愛してる、ミア」
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