035

 くちびるから、呆然と言葉が滑り落ちた。


「まさか、君――」

「……気付くのが遅ぇよ」


 ぼそっ、と言い放たれ、私はただ驚く。信じられない思いで、意味のないまばたきを何度も繰り返した。

 アイクが悔しげに目を逸らす。ぼそりと小さな声。


「上の指示に逆らって、ポジション全部外されて、犯罪まがいのことまでやって……」


 歪めた目元を薄く朱に染めて、彼は押し殺したようにつぶやいた。


「……好きじゃなきゃ、こんな馬鹿なこと、しねえよ」

「な――……っ」


 愕然と目を見開き、半開きになった口から「いや、だって」とうろたえた声がこぼれ落ちる。


「君と私の付き合いは、たかだか半月だろう……?」

「時間かけりゃいいってもんじゃねえだろ、こういうのは」


 そっぽを向いたアイクの言葉に、ますます私は狼狽した。


「そ、そうかもしれないが……だからって、これはないだろう、これは!」

「はァ⁉ 人の恋路をこれとか言うな!」

「こ、恋……ッ⁉」


 まっすぐに言い放たれたその単語で余計に混乱が込み上げて、私は意味もなく手で口元を覆った。

 アイクが言う。


「いいか、俺たちは潜入任務の前に、ターゲットについて徹底的に調査する。身辺調査は当たり前、もし電脳のバックアップデータがあれば、担当官がリンクして、人生の追体験すらやってのける」

「なっ……じゃ、じゃあ君は」

「悪ぃが、おまえの人生、人格、趣味嗜好、おまえにまつわるありとあらゆる全てについて、俺は地上の誰より詳しい自負がある」


 きっぱりと断言されて、あまりのことに眩暈がした。かっ、と顔が熱くなり、思わず叫ぶ。


「ッ――プライバシーの侵害だろう‼」

「これも仕事なんだよ!」

「君の場合は私的利用だろうが!」

「失礼なこと言うな! おまえに惚れたのは実際に顔を合わせた日のことだよ!」

「は⁉」


 顔を合わせた瞬間、って。


「そ、それはその……一目惚れというやつか」


 もごもごと言うと、アイクは目元を染めて「ちょっと違ぇよ」とつぶやいた。


「調査期間の段階で、惹かれるものはあった。でも、気のせいだと思おうとしてた。なにしろ俺は公安で、おまえは監視相手だ」

「だったらなぜ――」

「初めて顔を合わせた日、おまえが〝大爆発〟したの、覚えてるか」

「え? あったっけか、そんなこと……」

「あったんだよ。急にやってきた部外者に好き勝手されて、気分が悪かったんだろうな。若い刑事が何人か、嫌味ったらしく俺に突っかかってきてさ。そこでおまえがドカン、だ」

「ああ、あー……?」

「ぜんっぜん覚えてねえな、さては」

「……すまない」


 素直に謝ると、アイクは「そういうところだよ」と苦笑する。


「追体験で、おまえの気性はよく知ってた。気が短くて、融通が効かなくて、すぐ爆発してキレ散らかす。だけどおまえは一度だって、自分のためには怒らなかった。いつも大切な人や弱い者、義憤のために怒っていた」


 そう言って、アイクはふっと目を伏せた。


「……いいなあ、って思ったんだよ」

「なにが……」

「あんな風に純粋に、自分のためだけに怒ってもらえたら、その背に庇ってもらえたら、どれだけいいだろうって」

「っ……」


 なんのてらいもない純粋な言葉に、じわじわじわ、と耳が熱くなってくる。アイクは小さく笑って、ちらりと私を見た。


「それで対面初日に実際にやられて、ころっと行ったわけだ。我ながらくっそチョロいよな」

「う、うう……」


 だめだ、いたたまれない。

 背を丸めて小さくなりつつ、私はせめてもの抵抗として反論した。


「け、経緯はわかった。でもだな、君にだって立場や責任が――」

「全部放り捨てたのは俺の勝手だ。おまえには関係ねえ」

「ぐっ……」


 駄目だ、反論できない。

 ぐう、と黙り込んでしまった私をよそに、アイクはがしがし頭を掻きむしった。鳶色の流し目が、ちらりと私を見やる。

 なにか良くわからない感情でいっぱいになった瞳をして、低い掠れ声で彼はささやいた。


「ただ単に、今度は俺が庇いたいって思ったんだ。どうしても、俺がおまえを、放っておけないんだよ」

「し、しかし……」


 なにを言えばいいかわからず、ただ戸惑う。うろうろと視線をさまよわせる私を、アイクはじっと見つめた。深い情を宿した眼差しに、いたたまれなくなって目を逸らす。

 よくわからない感覚に耐えられず、私はぼそぼそと呟いた。


「その……ここは頑張って、放っておいたほうがいいと思う」

「あァ? なんだそれ」

「君のためにならない。放り捨てたものは、ええと……とりあえず拾っておけ」

「いや、おまえなぁ……はいそうですかって拾いにいけるかよ」

「そ、それはそうかもしれないが……今の私に関わったところで、いいことなんて何もないだろう」

「おい……おまえ、俺の話聞いてたか?」

「聞いていた。聞いていたとも」

「本当に聞いてる奴は二度も同じことを言わねえよ」

「で――でも!」


 うろたえきって顔を上げる。愕然とした気持ちのまま、私はゆるゆると首を振った。


「さっきの話を思い出せ。わかっているのか? アンドロイドに愛されれば、君も殺されてしまうかも――」

「――だからなんだっつうんだよ‼」

「な……っ⁉」


 ものすごい大声に、びくっ、と全身が突っ張る。

 アイクは両手で顔を覆い、ふーっ、と長いため息をつくと、絞り出すような声で言った。


「わかってんだよ、愛だの恋だの、それがどれだけ厄介か……」

「あ、アイク……」

「ほんっとおまえ、馬鹿、最悪、無神経……」

「いや、その、すまない……」


 鳶色のつむじから、もう一度「馬鹿」と小さな罵声。


「好きな相手の言動で、死ぬほど心が乱される? んなの人間だって同じだろうが。アンドロイドばっかりが、振り回されてると思うなよ……」


 震えてよれた、情けない弱音。激情を必死で抑えた小さな声に、なにか深いところが、じんと震えるのがわかった。


(なんだ、これ……)


 まるで知らない感覚に戸惑う。胸の奥から、なにか綺麗な感情が、しんしんと込み上げはじめていた。


 愛じゃない、と反射的に思って、そうだろうか、と疑う。

 オノと身体を重ねたときのことを思い出した。あのときの、本能が強烈に刺激される、酩酊じみた多幸感。あの鮮烈な『愛情』と、今ここにある感覚は、あまりにも違っている。


 もっと静かで、純粋で、きらきらした透明な水のような、私の知らない綺麗な感情。


「……私は、家族以外の愛を知らない。恋のこともわからない」


 ぽつり、と声が落ちていた。アイクがゆるゆると顔を上げる。すがるように視線が交わり、私は自分のくちびるから、勝手に声がこぼれるのを感じた。


「でも……どうしてだろう。たった今、私は、君を抱きしめたくてたまらない」


 この感覚はなんなのだろう。

 目の前が濡れたみたいに輝いて、息をするたびに、生きている実感がきらめくような――とても綺麗で、不可解な、この感覚は。


 頭がぼうっとする。それがちっとも不快じゃない。抑えられないなにかを胸に抱いたまま、じっとアイクを見つめ返した。どこか熱っぽいつぶやきが、ぽつりと落ちる。


「なあ。どうしてだと思う……?」

「ッ――」


 アイクはなにも答えずに、思い切り私を抱きしめた。あっ、と反射的な声がこぼれて、包まれるぬくもりに強い力が込められる。「痛い」とつぶやくと、びくっ、とアイクが力をゆるめた。


「悪ぃ、おまえ今、子供の姿だっけ……」


 そう言うくせに、抱きしめる腕を離そうとはしない。ぐりぐりと私の肩に額を押し付けて、彼は震える息を長く吐いた。ずっ、と鼻をすする音がして、アイクの顔がある肩口が、ぬるい水気で湿っていく。


 私はおずおずと手を持ち上げて、丸くなったアイクの背をそっと撫でた。指先から、じんとした震えが伝わってくる。きらきらした透明な感情を噛み締めて、私は静かにささやいた。


「人間というのは……こんなにも、美しい生き物なのだな……」


 言ってすぐ、いや、人間だけじゃない、と思い直す。サクラとフィオの瞳を思い出し、やっとわかった、と私は胸の内でつぶやいた。


 きっとすべての人の目の中に、あの感情はあったのだ。誰かを愛し、慈しんだことのある、すべての人の内側に。そこには人間もアンドロイドもない。


 ゆっくりとアイクの背を抱き返して、そうっと目を閉じる。きらきらと、私の奥で澄んだ感情が光っている。なんて綺麗なのだろうと思う。


(きっと、これが――……)


 胸の内を満たす美しいものに身を委ね、私は自分の目元から、理由のわからない雫が落ちるのを感じた。わけもなく幸福だった。

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