006

 驚きのあまりびくりとした私は、半ば痙攣のようにそちらを向いた。開いたドアに人影を認め、反射的に立ち上がる。


 入ってきた男性は、慌てた様子でこちらに歩み寄ると、いやに滑らかな動作で頭を下げた。


「大変お待たせしてしまい、申し訳ございません! 初めてお目にかかります、私、当研究所所長のタムラと申します」


 言い訳なしの謝罪から入り、自己紹介とともに完璧な角度のお辞儀。すべてのマナーが完璧だった。どうやらタムラ所長は、外部の人間との面談には慣れているらしい。

 ソファに座ったまま、アイクがへらりと笑って頭を下げる。


「いやあ、急にお呼び立てしてすみません。Ph_10nyのことで、どうしてもいくつかお尋ねしたいことがありまして」

「ええ、ええ。それは構いませんが……」


 言いながら、タムラ所長はじろじろとアイクを眺め回した。どことなく咎めるような視線。『こちらはきちんと挨拶したのに、おまえはソファから立ちもしないのか』とでも言いたいのだろうか。


 私は軽くため息をついた。タムラ所長が正面のソファに座るのを見届けてから、着席の許可を待つ。

 タムラ所長が手のひらをこちらに向けてきた。


「さあ、どうぞおかけください、礼儀正しいお嬢さん」

「これはご丁寧にどうも。失礼いたします」


 できるだけ静かにソファに腰掛ける。折り目正しく背筋を伸ばした私に、タムラ所長はにこりと微笑みかけた。どうぞ、と促すような視線。

 私はちかりと目をまたたかせ、通信越しに警察IDを提示した。


「我々はこういう者です。中央警察刑事課、ツバキ・ワイアット」

「そして同じく、中央警察刑事課のアイザック・ブラウンです。ああ、僕のことはお気軽にアイクと――」

「ほう。ツバキ・ワイアット嬢ですか」


 アイクの言葉を完全に無視して、タムラ所長は静かに微笑んだ。黒い瞳が、じっと私を見つめてくる。

(なんだ……?)

 なぜだろう、妙に落ち着かない、不安にも似た感覚が込み上げた。タムラ所長の瞳は深い沼のような気配を宿していて、まるで胸の底が、すっと冷たくなるような――


「――ちょっと、やだなあ。なんで僕を無視するんですか。意地悪はやめてくださいよ」


 へらり、と笑う声。はっとアイクを見る。

 無理やり会話に割り込んできた隣のバディは、気の抜けた笑みを浮かべながら「彼女ばっかり見てないで、僕も混ぜてくださいって。あれ、見えてますか?」などと言って、タムラ所長の前で手を振っていた。


(なんだ? 今の感覚は……)

 顔をしかめる私をよそに、アイクはまだへらへらとタムラ所長に呼びかけている。私はひそかに驚いた。


(珍しいな。アイクがこんな態度を取るとは)

 まあ、あそこまではっきり無視されれば嫌な気分にもなるだろう。だが、アイクは身内にはふざけた陽気な男でありながら、外の者には真面目な態度を貫くことも多く、対人コミュニケーションに長けた男なのだ。そんなアイクが。


 しかし、これ以上相棒の様子に気を取られていても仕方がない。私は、わざとらしい笑みのアイクをたしなめた。


「おい、あまり所長さんを困らせるな。――すみません。私たちが伺ったのは、ご存知の通り、花嫁ミア殺害事件の捜査でして」

「ええ、存じております。しかし私としましても、あまりお力になれそうにないのですよ」

「え、そうなんですか?」


 ようやく平常に戻ったアイクが言う。タムラ所長はこくりと頷くと、困ったようにため息をついた。


「私は半年前に就任したばかりで……Ph_10nyのことは良く知らないのです」

「なるほど……では、彼女と親しかった同僚などは」


 そう問いかけると、タムラ所長は困ったように「それが……」と口ごもった。


「半年前まで、ここのスタッフはアンドロイドばかりだったんです。といっても、単に優秀な人材を集めたら、自然とそうなってしまったのですが」


 それはそうだろう。アンドロイドは繊細すぎる精神という弱点こそ抱えてはいるが、他には欠点らしい欠点がない。電脳研究における優秀さだけを重視して人員を集めれば、アンドロイドだらけになるのは当然のことと言えた。


「でも、最近は世間が種族差に敏感になってしまったでしょう。職員がアンドロイドばかりなのは人間差別にあたると、大規模な人員の入れ替えがあったんです。ですから、今のスタッフの中にPh_10nyと親しいものはほとんどいないと思います」

「そうですか……」

「まあ、それもこれも、うちの研究のせいなのですが……」

「うちの……?」


 アイクが眉を跳ね上げる。タムラ所長は「はい」と小さく呟いた。


「アンドロイドの魂をデータ化するソフトウェア『テセウスの亡霊』は、この研究所で開発されたのです」

「じゃあ、フィオは……」

「ええ。開発チームのリーダーでした」


 私とアイクは顔を見合わせ、黙り込んだ。


 今の世間が極度に種族差に敏感になったのは、一年前『テセウスの亡霊』が公開され、アンドロイドの魂が単なるデータになってしまったからだ。そのせいで、アンドロイドを〝生命〟と認めない派閥が生まれ、差別主義者と平等主義者の諍いが頻発、二種族が平和に暮らす世界は一気に揺らぎ始めた。


(アンドロイドの人権を脅かす原因になったのが、他でもない、世界最高のアンドロイドであるフィオだったとは……)


「……皮肉な話ですね」

「ええ。そんな中で、Ph_10nyとミア・アンジェリコの結婚は、アンドロイドと人間の融和の象徴とまで言われていたんです」


 それは――知らなかった。

『……なあ、そうなのか?』

 通信を開いてアイクに呼びかけると、電波の向こうで彼がため息をつくのが聞こえた。


『そうだよ。ニュースでもネットでも連日大騒ぎだったろ。むしろなんで知らなかったんだよ。仙人か?』

『そ、それは……』


 ぐっ、と返事に詰まってしまう。もともと俗っぽいことに興味がなく、世間の動向に疎すぎるとは言われていたが、こんなところで弊害が出るとは。

 タムラ所長が嘆くような息を漏らした。


「本当に、なぜ、彼女はあんなひどいことを……」

「それを解明するのが我々の仕事です。全力を尽くします」


 できるだけ誠実に告げる。タムラ所長は「頼みます、刑事さん」と肩を落とした。

 ため息をつき、失意もあらわにうつむく仕草。彼は何度かためらいを見せたのち、絞り出すようにつぶやいた。


「Ph_10nyの能力は、全人類の財産なのです。被害者のご家族やご友人には申し訳ないのですが……人類の未来のため、彼女にはなんとか罪を償って、戻ってきてほしい――それが私の、正直な気持ちです」


 苦々しい、躊躇と悔恨にまみれた声。肩を震わせ、誰にも言えない心の底を吐露するような口調。


 ――しかし。

 彼がより深くうなだれる直前、私は見てしまった。



 その口元が、不釣り合いな笑みの形に、はっきりと歪むのを――。


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