020
もつれ、転がり、組み付き合いながら、私は警察のサーバーからプログラムをダウンロードする。アンドロイドの猛攻に耐え、視界の隅でダウンロード完了を告げる表示が出た瞬間、私はかっと瞳を見開いた。ぐっ、と目元に力を込める。
ちかちかちかっ、と私とルイーズの瞳がまたたいた。視界間通信で、ルイーズの電脳に強制侵入する。落としたばかりのプログラムを無理やり起動させ、
倒れかけた身体を、さっと抱きとめる。ルイーズをゆっくりと床に寝かせ、左手の小指を確認した。
(……よかった、通常動作に戻っている……)
さっきダウンロードしたのは、緊急時にアンドロイドに投与する救命プログラムだった。ストレス管理リングの機能を爆発的に強化し、精神状態をリセットさせる。
作用が強烈すぎるため健康被害が心配だったが、すでにリングは通常動作に戻っており、ランプの異常も見られない。はーっ、と息をつく。
そのとき、ルイーズがぴくり、と目を開けた。視線がさまよい、ゆっくりと私を見る。ぱちぱち、とまばたき。
「……きみ、は……」
「気が付いたか。君はナノマシンガスの影響を受け、制御を失ったんだ。具合はどうだ。どこか異常は」
「わから、ない……チェックが、機能していない。ただ、体感として、致命的なものは、なさそうだが……」
「わかった。搬送する。掴まれるか?」
しゃがみこみ、ルイーズに背を向ける。途端、小さく息を呑む音がした。「なんだ」と問う。
「君、怪我を……」
「え? ああ、これか。忘れていた」
さっきルイーズに刺されたガラス片を、無造作に抜き取って放り投げた。血がついた鋭い破片を、ルイーズが呆然と見つめている。その表情が、みるみる青ざめていった。
「そうだ……思い出した。その傷は、私が――」
「ルイーズ」
「なんてことを……」
アンドロイドとして、誰かを傷付けたことが相当ショックだったのだろう。ルイーズは呆然とくちびるを震わせている。
「私は――逮捕されるのだろうか」
「いや……」
どう考えても、彼女はガスの影響で錯乱しただけだ。せいぜい数日拘束して、電脳を洗われる程度で済む。
だが、私はふっと口をつぐんだ。彼女を安心させる言葉の代わりに、言う。
「……すまないと思うなら、情報をくれないか」
「情報……?」
「研究所で会ったとき、君に名乗った覚えはない。なぜ私の名前を知っていた?」
「それは……」
ルイーズはかすかにためらった。数秒の逡巡ののち、まだ朦朧としていた表情に、少しずつ意志が戻っていく。
彼女は意を決したように口を開いた。
「君の名を知ったのは、タムラ所長を監視していたからだ。所長室での様子も、すべて盗撮していた」
「なぜ」
「なんでもいいから、奴の弱みを握るためだ」
「握って、どうする」
「脅すのさ。どうしても、我々の研究を再開させたかった」
「あなたの研究……?」
「ああ。Ph_10nyとの共同研究だ」
「Ph_10nyと……⁉」
まさかここで、Ph_10nyの名が出てくるとは。私は思わず身を乗り出し「続きを」と促した。ルイーズはぐったりしたまま、視線だけで辺りを見回す。
「……例の彼は、いないか」
「誰のことだ」
「君の相棒だよ。あの、鳶色の目の……」
「ああ、アイクか。彼は他の要救助者を搬送している。なぜ彼を?」
「彼とは主義主張が合わないようだからね。余計な軋轢は避けたい」
ルイーズは他に誰もいないことを確認すると「実は」と切り出した。
「半年前『テセウスの亡霊』は大規模なアップデートを行う予定だったんだ。しかし、リリース直前に中止命令が出された。アップデート内容がまずい、ということで」
「どんな内容だったんだ」
「いや、なに。単に『対象をアンドロイドだけではなく、人類全体に拡張する』それだけさ」
「なッ――⁉」
信じられない言葉に、絶句する。
データ化の対象を、人類全体に。それはつまり――人間の魂をも、肉体からデータとして取り出せるようにした、ということだ。
愕然とする私に、ルイーズは不服そうにつぶやく。
「それが問題になって、ワイアット研究所に改革の必要ありとして、タムラ所長が派遣されたんだ。彼は所内をあちこちいじりまわし、人事を再編成し、フィオは左遷された。まったく、理解しがたい蛮行だよ」
「なにを――当たり前だろう‼ そんなものを開発しておいて、研究所ごと消されないだけありがたいと思え!」
「なぜ? 理解できない」
「わからない、だと……?」
ルイーズはただ、不思議そうな目で私を見上げていた。その瞳にひとかけらの罪悪感も見えないことに、ぞっとする。
「人間の魂が完全にデータ化される。それがどういうことか、わかっているのか……」
「もちろんだ。脳と脊髄の移植手術なしに、いつでも、どんな義体にでも魂を移動できるようになり、生きた肉体を完全に捨てられるようになる。老いや病から解放されるんだ。便利だろう」
「肉体と魂のつながりが、完全に絶たれるんだぞ……?」
「それがどうした? アンドロイドは生まれたときからそうなっているが、皆うまくやっている。どうせ大半の人間はオリジナルの肉体をろくに残していない。脳と脊髄の一部、たったその程度のパーツが、代替可能になったからなんだというんだ」
「ッ……本気で、言っているのか」
ルイーズがうなずく。
私は食いしばった歯が音を立て、握った拳が無意識に震えるのを感じた。押し殺した声で、言う。
「『テセウスの亡霊』によって、全人類の魂が、身体とのつながりを完全に失う。人類は肉体を失い、ただテセウスの船を乗り継ぐだけの、姿のない亡霊と化す――それがどれだけ重大なことか……」
想像する。還るべき肉体を失い、ただの茫洋とした存在として、永遠に〝どこか〟をさまよい続ける自我のことを。物質世界とのつながりを完全に失った我々は、一体〝どこ〟に存在しうるのか。その意識は本当に〝私〟と言えるのか。
そこには現実を保証するものがない。生死さえ存在しない。精神的ストレスで死亡できるアンドロイドと違い、肉体由来の死を奪い去られた人間は、簡単に死ぬこともできない。長い時の果てに自我が歪み、どろどろとした〝なにか〟に成り下がっても、気付くことすらできないのだ。
ぞっとするような話だった。それなのに、ルイーズはひたすら純粋な瞳をして、静かに私を見つめている。澄んだ目が、すっとつぶやいた。
「だからなんだ? そんなこと、私にはどうでもいい」
「っ……ふざけるな‼」
かっとして叫ぶ。
「そもそも、だ。現在の惨状は、あのソフトがアンドロイドの魂をデータ化したせいなんだぞ⁉ このテロだって、彼らを人類とみなさない連中の仕業だ‼ そんなご時世に、今度は人間の魂までただのデータにする⁉ それもアンドロイドである君と、フィオが‼ そんなこと人間が許すわけがない、それこそ虐殺ものだ‼」
渾身の叫びに、ルイーズはゆっくりとひとつまばたきをすると、とても静かに私を見つめた。凛とした、射抜くような眼差し。赤いくちびるが、はっきりと言う。
「――そんなことは、関係ない。真理の探求こそが、すべてだ」
「っ――」
絶句する。ルイーズの目は不気味なほど澄んでいて、私は愕然とするしかできなかった。
そのとき、ルイーズが激しく咳き込んだ。はっとして抱き起こす。そうだ、受け答えがしっかりしていたから忘れていたが、彼女はガスの影響を強く受けている。早く搬送しなければ。
「おい、大丈夫か!」
「……っ、エネルギーを、かき集めていたんだが……そろそろ、限界、か……」
「ルイーズ!」
ルイーズの瞳から、みるみる意思の色が失われていく。急速にぼんやりした口調になった彼女は、うわごとのようにつぶやいた。
「真理……それだけが、私を……」
「っ、もう喋るな!」
ぐっ、とルイーズを背負い上げる。じくりと痛む背中を無視して、重い身体を腰でささえ、ゆっくりと立ち上がった。耳元で、ルイーズの声がする。
「あの人は……アンドロイドの真理を隠したまま、逝ってしまった……私はただ、もう一度、真理の向こうにいる、あの人に……」
――ああ、ワイアット。
その掠れたささやきを最後に、ルイーズは完全に意識を失った。
広い倉庫内がしん、と静かになる。遠くで、搬送者を運ぶ足音や、人を探す呼び声が、残響のようにこだました。
初めて会ったとき、彼女が言ったことを思い出す。
『ワイアットは、アンドロイドを心から愛していた』
『私は、あのワイアットが自らの手で造ったアンドロイド、その最後の一人なのさ』
(ワイアット……それが、彼女の理由か……)
ちら、と肩口を見やる。うなだれたルイーズ、その目元に、私はたしかに涙を見た。
「……ルイーズ」
防護服の指の甲で、そっと雫を拭ってやる。私はルイーズをゆすり上げ、乱れた姿勢を整え直すと、
『――要救助者一名確保! 出口に搬送する!』
通信越しにそう叫び、歩き出した。
人間の魂をもデータ化する『テセウスの亡霊』。
それがあれば、人間を肉体から解き放つことができる。死から遠ざけることができる。
思い出したのは白い紙片だ。フィオの部屋に隠されていた、たった一言の願い事。
『どうか、ミアに長生きしてほしい』
(まさかフィオは、ミアの長寿のために……?)
魂を抜き出し、空っぽの義体に乗り換えさせ、生体パーツを保たないアンドロイドとして長生きさせようとした……?
だが、ミアはあの式場で、電脳外殻ごと脳を焼き殺されているのだ。魂を抜き出す前に殺してしまっては意味がない。
(ということは、まさか――)
ミア・アンジェリコの〝中身〟は、とっくに別の場所に退避させられているのではないか?
フィオはたしかにミアの肉体を破壊した。だがそこに『生きた人間』は誰も入っていない。自立したプログラムで動く意思のない有機体なら、生きていないただの人形ならば、アンドロイドでも容易に〝殺害〟できる。
タムラ所長たちにより『テセウスの亡霊』のアップデートは封印された。現在、人間の魂を抜き出し、アンドロイド化させることは認められていない。だからこそあの事件が起きた。
あの事件のため、ミアは公的には『死亡』扱いとなり、不自然な長命を咎められることがなくなった。フィオが真相を明かさない限り、ミアの存在が明るみに出ることはない。
フィオの言葉を思い出した。
『なにも語らぬまま関係者が死に絶えて、謎はただ謎のまま、世界はすべて元通りになる』
もし、このままフィオがなにも語らず、業を煮やした国家たちが動き、超法規的措置により彼女が死刑になったら。謎はただ謎のまま、世界はすべて元通りになる。ミアの命は守られる。
(そうか……)
ようやく、わかった。
全てはミアを長生きさせるため――あの殺人事件は、そういうことだったのだ。
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