#21

ルイの顔は青白くなっていた。


その顔色は、まるでガスコンロの炎のようで、立っているのが不思議なくらい憔悴しょうすいしているのがわかる。


《ルイ。やっぱりワタシがやるわ。許可をちょうだい》


クロエにそう言われたルイは、何も口にすることなくコクッと頷いた。


すると、次第に疲れ切っていた顔に生気が戻り、普段の彼女ではない目のつり上がった顔つきへと変化する。


クロエの人格が表に出てきたときの顔だ。


ルイはもう精神的に限界だったのだろう。


彼女の意識が脳内で消えていくのを、クロエは感じていた。


それからバスルームの扉の前へと立ったクロエは、コンコンコンと三回ノックをした。


中から当然反応はない。


やれやれとため息を吐き、時間がもったいないと思ったクロエは、バスルームに閉じこもっている男へ声をかける。


「ねえ、アナタ知ってる? こういうホテルのアメニティの中には、マニキュアを落とすための除光液があるって」


返事はないが、クロエはそのまま喋り続けた。


除光液の主成分であるアセトンは、非常に揮発性の高い物質である。


しかも引火しやすく、 そのため消防法では“危険物第四類”に指定されている。


台所で火を使っているときや、そのまま処分しようとすると、何かの拍子に引火してしまう危険性があると。


クロエがなぜこんな話を始めたのか。


バスルーム内にいる男にはわからなかった。


どうしてこんな状況で化粧品の話などし出したのかと、バスルームの完全に開かない窓から、なんとか抜け出そうとしていた。


だが、子供ならまだしも大人ではその狭い窓を抜けられない。


男はこのままじっとしていれば、そのうちにホテルの従業員が気が付いて助けてくれると、敵がいなくなるのを待つことにした。


だが、次にクロエが口にした言葉を聞き、男は扉を自ら開けることになる。


「もしここで不慮の事故が起きたら、アナタは焼死体になっちゃうわね」


男は、クロエにバスルームに火を付けると脅され、慌てて室内から出てきた。


両手を上げて抵抗する意思がないと訴えながら、彼女の前でそのままの姿勢で両膝をつく。


クロエは、自分の目の前で両手を頭の後ろに回してひざまづく男を見て、ニッコリと微笑んでいた。


そのときの彼女の表情は、言う通りに動いてくれてありがとうと、お礼でも言いたそうだ。


「殺さないでくれ……」


スーツ姿の男は、やはり日本人だった。


震えながら洗面所の床に頭を擦りつけている男に、クロエは優しく声をかける。


「心配しないで。これからワタシの言うことを聞いてくれれば、殺したりなんかしないわよ」


クロエはそういうと、男にゆっくりと立ち上がって鏡を見るようと言葉を続けた。


男は、彼女の指示通りに動き出した。


洗面所にある壁一面に貼られた鏡へと身体を向け、男はそこに映るクロエの姿を見る。


「な、なにをすればいい?」


「そうねぇ。まずはアナタがワタシに何ができるかを言ってみて」


「はあ? 何ができるって俺は下っ端なんだよ! 大したことなんか知らないしできないって!」


クロエは、いきなり声を荒げた男に向かって自分の目をしっかりと見つめるように指示を出した。


何も口にせず、ただ黙ってこちらの質問に答えるようにと、静かながら威圧的な物言いで男を黙らせる。


逆らえば殺されると思っている男は、もちろん彼女の言う通りにした。


無防備な姿勢のまま、クロエの笑顔ながらけして笑っていない瞳を見つめている。


「ワタシ、うるさいのが嫌いなの。それと、Woman's heart and autumn sky……。アナタ、英語は話せるわよね? 女心は秋の空って言葉の意味は知ってる?」


「俺は会社のデータにアクセスできる! それでお前が知りたい情報は教えてやれるよ!」


慌てて何ができるかを考えた男は、まるで悲願するように自分の利用価値を口にした。


鏡越しから男を見ているクロエは、不機嫌そうに唇を尖らせ、その口を開く。


「いちいち声を張り上げないでよ。今言ったばかりでしょう。ワタシはうるさいのが嫌いだって」


「わかった、わかったから……。頼むから殺さないでくれ……」


クロエは、涙ぐみながら答えた男を見て上品にクスッと笑うと、上機嫌に言う。


「フフフ、そう言ってくれてありがとう。おかげで良い一日になりそうだわ」


「良い一日……?」


泣きそうな顔で呆けている男に、クロエは眉尻を下げて言い返す。


「『ダーティハリー4』を知らないの? クリント·イーストウッドが主演と監督をやってるやつ」

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