#8

部屋に入り、リクルートスーツに消臭剤を吹きかけてシャワーを浴びる。


ぬるめのお湯に身を浸しながらホッと一息入れ、汗を流し終えて浴室から出ると、下着や靴下は新しいものを付ける。


もう一仕事終えた気分になっていたが、これから打ち合わせだ。


まだ少々湿っているリクルートスーツに着替えながら、ルイは灰寺のいる部屋へと向かった。


打ち合わせとはいっても、今夜行われる小規模なイベントの段取りはすでに決まっている。


ルイは流れを理解するだけで、彼女に特にすることはない。


せいぜい灰寺の後ろで、笑顔でいればいいだけだ。


ルイが灰寺に部屋にノックをして入ると、彼は簡単な食事を取っていた。


サンドイッチを頬張りながら、ルイにイベントでの立ち回りを簡単に説明する。


緩爪ゆるづめくんはいつも通りでいいから。声をかけられることはないと思うけど、そのときは愛想よくしていてね」


半袖の柄シャツから仕立てのいいスーツに着替えていた灰寺は、サンドイッチを手づかみ食べ終えると、椅子から立ち上がった。


打ち合わせというよりは、ルイの振る舞いについて話しておきたかったといった感じだ。


そして、灰寺は彼女と共に、これからホテル内で行われるイベント会場へと向かう。


イベント会場は、豪華なホテルだけあってなかなかの広さだった。


会場には簡易的ながらも舞台も作られており、まるでファッションショーのように見えるものだ。


親と⼀緒に暮らせない子供たちを、公的な責任のもとで社会的に養育することを、社会的養護という。


社会的養護の子供たちは、現在の日本に約四万五千人といわれている。


そのうち約三万九千人が、乳児院や児童養護施設で集団生活をしているのが現状だ。


ホテルまでの移動中にそのことをスマートフォンで確認したルイは、日本でもこれだけいるのかと肩を落としていた。


発展途上国の中でも急速な経済成長を上げているとはいえ、ガウリカとラチャナが住んでいた村が多いインドでは、その倍の数の子供たちが両親と暮らせないはずだ。


自分の無力さを感じながらもルイは思う。


これまで自分が生活していくのに精一杯で、他人のことなど気にしている余裕はなかった。


今は灰寺に拾ってもらったおかげで収入も安定している。


それでも自分できることといえば募金くらいだと思っていたが、自分は縁があって社会貢献をおこなっている会社に入社できたのだ。


これからは意識を変えて行こうと、灰寺についていき、彼女がイベント会場の楽屋へと入ると――。


「何度いえばわかるんだ! スマイルだよスマイル! 笑顔を作れっていってるだろう!?」


そこでは、身なりのよいひょうきんそうなアジア系の男が、子供たちに向かって怒鳴っていた。


その怒鳴られている子供たちの中には、ガウリカとラチャナもいた。


二人ともボロボロだった衣服から、清潔でフォーマルな格好へ着替えていたが、その表情に笑顔はなかった。


他の子供たちと同じように、自分たちのことを怒鳴っている男から目をそらして俯いている。


「あッどうもすみません、灰寺さん。いつもなら二三発張り倒せば言うこと聞くんですが、ハハハ」


アジア系の男は、灰寺に気が付くとヘコヘコと頭を下げ始めた。


声をかけられた灰寺は、普段通りにうんうんと笑みを返すと、男の肩をポンと叩いてルイを連れて楽屋を出て行く。


部屋を出るルイの背中には、男の怒鳴り声がまた始まるのが聞こえていた。


「あの灰寺さん……。今のあれって……?」


子供たちを怒鳴る男に違和感を覚えたルイが訊ねると、灰寺は説明し始めた。


これから自分を育ててくれる人を見つけるためだ。


仏頂面では誰も彼ら彼女らに好感など持たないだろう。


多少厳しいことを言っても、そこだけは直しておかないといけないと、明らかに不信感を抱いているルイのことを宥める。


「これもあの子たちのためなんだよ。どんな人間だって笑顔が好きだろう? 実際に僕らだってどんなに疲れていても笑って仕事しているし」


「ですけど……あんな言い方って……。子供たちだって怖がってしまっているし……。わたし……ちょっと言っていきます」


「緩爪くん」


楽屋に戻ろうとしたルイを言葉で止めた灰寺。


そのときの彼の声は、ルイの知っている彼とは別人のまるで脅すような声だった。


ビクッと身を震わせて振り返ったルイに、灰寺は普段通りの笑みを返す。


「彼はプロだから、僕らのような素人が口を挟んじゃいけないよ」


「でも、灰寺さん! あれじゃまるで調教ですよ! あの子たちは動物じゃないんだから、もっと他の言い方が!」


ルイが食い下がると、灰寺は静かながら語気を強めて言う。


「いいから。あいつに任せておけと言っているんだよ」


そういった灰寺の顔は笑顔だったが、血の気の引いた彼の冷たい表情を見たルイは、思わず仰け反ってしまっていた。

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